第二章 百地三太夫


 関ヶ原の戦いで実質的に天下統一を果たした家康は元々用心深いことで有名だが、歳を重ねるごとに磨きがかかった。目障りなのは豊臣家だ。今も庶民から豊臣秀吉は慕われている。百姓から天下人になった秀吉の人気は想像を絶する。その後大坂春の陣を仕掛け勝利しても庶民に関係はなかった。そして春の陣で決着しなかった。猛攻を影武者で凌いだが、幸村の死は確認できなかった。


 相変わらず大坂は経済の中心で大坂城はそのシンボルだ。淀川を遡れば淀城、そして伏見桃山城、そして京。戦国時代を経た京は権威こそ失ったが、そのブランドは強力だ。さら琵琶湖へ向かうと安土城、そして長浜城。天下の台所の大坂にはかなわないが、近江商法が根付く。つまり秀吉の匂いがプンプンとする場所があちこちに存在する。


 家康はこれらの城を一つ一つ徳川の城とするが、匂いまで消し去ることはできなかった。


***


 幸村と真田十勇士が初夏の伊賀の里にたどり着く。


「呼びつければいいものを」


 百地三太夫が幸村を屋敷に招き入れる。


「知恵を借りるのに非礼はできない」


「しかし、よく徳川軍の攻撃を凌いだものだ」


 三太夫は戦の疲れを感じさせない幸村を畏敬の念を持つ。請われれば自ら大坂へ出向くつもりでいた。

 

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もちろん霧隠才蔵を含め部下に情報を収集させていた。


「才蔵は役に立っておるか?」


「十二分に。先の戦いの結果を見れば明らかだろう」


「遠慮は要らぬ。至らぬことがあれば言ってくれ。代わりの者はいくらでもいる。何ならわしが……」


「寄せ集めとはいえ真田十勇士は千人力だ。相手が万という大群でも打ち破ることができる」


「それは幸村に人徳が備わっているからだ」


 幸村が大きな笑い声をあげる。


「私に人徳などあるわけない」


 つられて笑うが、すぐ三太夫の表情が厳しくなる。


「さて、何用だ?」


 とは言うものの才蔵からあらましは聞いていた。


「服部半蔵のことです」


「伊賀者だったが目立たぬ集団だった。今伊賀に服部家は存在せぬ」


「しかし、影武者としての腕はかなりなものです」


「変身の術がずば抜けていた。だから忍者家業を捨て家康に仕えたのだ」


「やはり」

 

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「変身の術を磨いたところであらゆる術を駆使しなければ大したことなどできるはずはないと侮っていたが、家康の元での活躍を知って驚いた」


 いつの間にか幸村が聞き手に回り三太夫が多弁する立場になった。それほど三太夫は服部半蔵を評価していた。


「大坂城を落とせば服部半蔵、いや服部一門は不用になる」


「と言うよりは……」


 三太夫が腰を浮かせると幸村に近づいて肩を叩く。


「相談と言うよりは確認しに来たのだな」


 三太夫が微笑むと幸村も三太夫の肩に手を乗せる。


「さすが三太夫。影武者は首になる前に家康自身になろうとするだろう」


「ふふふ。そのとおりだ」


「家康と半蔵のどちらが先手を打つか?どう思われます」


「廃業したといっても服部半蔵には忍者の血が流れている」


「先に動くのは服部半蔵」


 三太夫の手が幸村の肩から、幸村の手が三太夫の肩から離れるとふたりの顔が触れあうまでに近づく。


「いつでも呼んでくれ」

 

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 三太夫はそう言うと中腰のまま元いた場所に戻る。


「才蔵!」


 霧隠才蔵が三太夫の膝元に風のように進み出ると頭を下げる。


「面をあげろ。お前はわしではなく幸村殿に頭を下げるのだ」


 才蔵が恐る恐る頭をあげるとそこには滅多にない柔和な三太夫の顔があった。


「もはやわしはそなたの頭領ではない。すべてを幸村殿に捧げよ」


 才蔵の返事を待つことなく三太夫は幸村に視線を移す。


「才蔵ほどではないが、我が百地一門に四貫目という忍者がいる。四貫目はわしを遙かに超える術者だ」


 幸村の横で才蔵が頷きながら三太夫を見つめる。


「それに百地一門のかなり先の子孫と四貫目が幸村殿を手助けするはず」


 呑み込みの早い幸村もこの言葉がまったく理解できない。四貫目の術力がずば抜けていることを才蔵も認めている。そして内心四貫目が真田十勇士に加わるのなら心強いとも思うが、今の今までなぜ三太夫が四貫目のことを口にしなかったのか不思議に思う。


「才蔵。幸村殿を無事に大坂へ」


 一方的な別れの言葉を受け取った幸村は残った疑問を消し去って三太夫に全幅の信頼を置く。

 

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「来て良かった」


 ふたりが大声をあげて笑う。


***


 三太夫の屋敷の外で大きな声がする。


「なぜ呼ばぬ!」


 その声の主は猿飛大猿だった。


「通せ!」


 忍びの者とは思えない大きな足音が聞こえてくる。


「なぜ知らせなかった」


 巨体の大猿が同じく巨体の三好清海入道を押しのけて部屋に入ると三太夫を睨らみながら、幸村の前に進み出て平伏する。


「いつもながら豪快だな。これじゃ私がここにいるのが見え見えだ。あっ、そうだ。半蔵の身の振り方について尋ねたいことがある」


「家康の影武者のことか?」


「そうだ」


「半蔵は必ず家康を裏切る」


「やはり」

 

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 ふたりの考えは一致していた。


「さて大坂に戻るぞ」


 幸村が才蔵に指示すると三太夫が制する。


「すでに徳川方の忍者は、幸村が大坂を抜け出し伊賀に向かったことに気付いているはず」


「すると大坂に戻るのはかなり大変だ」


「猿一族はそのためにここに来たる」


「それは心強い」


「そのためにわしはあることを考えた」


 大猿の作戦に幸村が頷く。


***


 夜になって三太夫の屋敷で盛大な宴会が催される。


「酒だ!酒を持ってこい」


 誰かが叫ぶと大部屋に酒が運び込まれる。


「無礼講じゃ!」


「真田幸村様は我ら伊賀者の真の頭領だ」


 それを受けて幸村の声がする。


「亡き秀吉様の豊臣家を復活させるために全力で家康を討つ」

 

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 宴会が盛り上がる。


「今度は一発で仕留めてください」


「分かっている。呑め!」


「ありがたく頂戴します」


 三太夫の屋敷全体が酒宴で盛り上がっている。かなり離れたところで徳川方の忍者軍団が慎重に包囲網を狭める。


「やはり幸村は生きていた」


「奴らは完全に油断しております」


 下忍の報告に軍団率いる頭領は頷かない。


「今が攻撃のとき!」


「三太夫や幸村や真田十勇士にしてはおかしな行動だ」


「しかし、現に隙だらけ」


「屋敷内の幸村が本物だと言う保証はない」


「茶臼山の戦い以後の足取りは不明。しかし、幸村が大坂にいると言う情報はありません」


「情報がないからといってここにいるとは言えない」


「しかし、絶好の機会。これを見逃せば家康殿は必ずお怒りに」


 気が進まないと言うよりは敵の無謀とも言える行動を読めない頭領は躊躇する。しかし、部下が言うのも最もだ。ここで静観するわけにも行かない。

 

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「もう少し待つ。酔い潰れた兆候が確認できたとき総攻撃……」


 頭領がいったん言葉を止める。


「……何か罠の匂いがする」


 しばらくすると大柄な坊主が華奢な女を連れてフラフラしながら縁側に出てくる。


「あやつは三好清海入道!」


 すぐにもう一人、やはり大柄な坊主が現れる。


「兄じゃ。わしの女を横取りするな」


 それを見た上忍が頭領に耳打ちする。


「あれは三好伊佐入道。三好清海入道の弟だ」


 頭領が色めきだつ。


「真田十勇士の三好兄弟がいると言うことは……幸村もいる!」


 頭領は先ほどの作戦を変更して上忍を前面にした総攻撃を開始する。


「皆殺しにしろ!」


 そのとき同じ命令が屋敷からもする。先ほどの女が三好清海入道から素早く離れると小型の六角手裏剣を、そして大柄な坊主ふたりが大型の十字手裏剣を放つと苦無(サバイバルナイフくないのような短い刀)を抜いて突進する。

 

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 相手が酔っていると無意識のうちに油断していた徳川方の忍者軍団は後退を余儀なくさせられる。しかし、その背後には猿一族が待ち構えている。地面には鉄菱が捲かれていて不覚にも踏みつけてしまう。百地一族と猿一族が彼らを全滅させるのに長い時間は必要なかった。


 やがて勝敗がつく。息の根の徳川忍者軍の頭領が大猿を見上げる。


「お前は三好清海入道じゃない」


 大猿は返事することなく無用な返り血を浴びないように苦無で喉元を突く。しかし、大猿の頭から数滴ではあるが血が流れ落ちる。もちろん返り血をではない。


「急いで丸坊主にしたから、ヒリヒリするわい」


 横にいる三太夫も同じだった。先兵を切った「くノ一」に指示する。


「がまの油を」


 くノ一が屋敷の奥に消える。


「この闇では大柄な者が坊主になれば誰でも三好清海入道に見える。わしらの変身の術は服部一族以上だ」


 大猿の言葉を受けた三太夫が大笑いすると大猿も引きずられるが、神妙な声を出す。


「幸村は無事大坂にたどり着けたのだろうか」


「佐助を信用しろ。才蔵も一緒だし三好兄弟もいる。それに真田十勇士の根津甚八の鯨船で移動するから大丈夫だ」

 

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「鯨船?」


「大猿とあろう者が根津の鯨船を知らぬのか」


「根津甚八が水上戦に長けていることは人づてに聞いたことがある」


「実はわしも鯨船を見たことはない。噂によれば鯨のように水中を移動するらしい」


「まさか。水軍を率いていると言ってもそれはないだろう」


「才蔵によれば鯨船で柏原浜まで移動して伊賀を目指したそうだ」


 その頃の河内は塩分を含む内海だった。ただ水深は浅く巨大な水たまりだった。それでも大坂からは船で奈良盆地への入り口の柏原まで舟で行くことができた。鯨船で人目を避けて水面下で航行して幸村一行を柏原まで運び、今度は戻ってきた幸村らを積んで大坂に向かった。


「もう大坂に到着しているだろう。それより呑もう。禁酒したから美味いぞ」


 この言葉でやっと大猿も笑う。

 

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