第五話 医療費控除の調査はあるのか


 調査の話題から少し離れるが、ある会社員の悲劇を披露する。


所得税には稼いだり儲けた利益(所得)から差し引くことができる所得控除という制度がある。誰にでもあるのが基礎控除で人的控除と呼ばれる。配偶者控除や扶養控除も人的控除である。


 ある会社員の息子が東京の大学に合格して親元を離れることになった。父親は授業料はもちろんのこと下宿代や生活費をせっせと仕送りする。


 さてサラリーマンは給料から所得税と住民税を天引きされる。住民税は一年前の所得にかかる税金だが所得税はその年の所得にかかる税金だ。会社は年末最後の給料を支給する時点で社員の一年分の給料の所得税額を確定させて、毎月天引きしていた源泉徴収税額との差額を計算する。天引きしすぎていれば還付(大概還付が多い)し少なければその分を含め天引きして最終給料を支給する。これを年末調整という。


 その十二月がやってきた。この会社員は息子を扶養控除の対象者として会社に届けているが、年末調整の結果税金が還付された。例年なら同僚と居酒屋に行くところだが、今回は自重する。


「少しでも勉学に励むよう、お年玉代わりに還付金を上乗せてして仕送りしてやるか」


 息子が正月に帰省したので手渡す。


「ありがとう。お父さん」


「大学生活はどうだ?」

 

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「大分慣れた。後期の試験が間近なのでゆっくりできない」


「そうか。仕方ないな。頑張れよ」


 息子は一泊しただけで東京に戻ってしまった。


***


 春が来て息子は二年生になった。そしてあっという間に夏が来る。お盆には息子が帰って来ると思っていた父親にメールが届く。


「忙しいので戻れない」


 そう言えば去年の夏も戻ってこなかった。ところが、その数日後会社の経理担当者から呼び出された。


「息子さんを扶養親族として届けられていますが、アルバイトされてませんか」


「えっ!」


「税務署からあなたの年末調整に誤りがあると指摘されました。去年息子さんには約二百万円ほどの給与収入があったらしいのです」


「二百万!」


「扶養親族に該当しないので年末調整をやり直して追徴しなさいとのことです。何かの間違いかも知れませんので、息子さんに尋ねていただけますか?」


「わ、わかりました」

 

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 携帯に何度電話しても息子が出ないのでメールを流す。やっと連絡がつくが経理担当者の指摘どおりだった。


――勉学にいそしんでると思ってたのにアルバイトに精を出しているとは!


 息子に裏切られたという気持ちでその日は眠れなかった。しかも会社に迷惑をかけてしまった。


***


 次の日経理課に出向くとまず頭を下げた。


「今月の給与から追徴分を天引きします。それより今年も息子さんを扶養親族として届けられていますが、大丈夫ですか?」


 そう言われて会社員がハッとする。感情が先行してアルバイトを続けているのか確かめていなかった。


「申し訳ありません。確認します」


 経理課の部屋から出ようとするが戻る。


「この件の罰金はどうなるのですか」


「会社が負担します」


「いえ、私が負担します」


「会社は源泉徴収義務者と言って責任があるから負担しなければなりません。とにかく今年も働いているのか、働いているのなら一年でどれぐらいの収入になるのか息子さんに確認してください」

 

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 会社員はうなだれて部屋を出る。


***


 年末調整についてもう一度説明する。


 住民税は所得税と違って一年前の所得にかかる税金を翌年の五月頃に決定される。一方、所得税はその年の所得を翌年の三月一五日までに自主申告して還付にならない場合同日までに税金を払わなければならない。サラリーマンの場合会社が年末調整して不足の税金があれば最終給与から天引きするか、徴収しすぎなら給与に上乗せして還付する。そして会社は翌年の一月末までに年末調整の結果を、所轄税務署と社員の住所地の市町村に報告する。


 この悲劇が起きたときにはまだマイナンバー制度が導入されていなかった。しかし、この会社員の息子に相当の給与収入があって父親の扶養控除の対象にはならないことをなぜ税務署が把握したのだろうか。


 それは市町村が住民票を基に世帯主や配偶者や扶養者の給与を、先ほど説明した年末調整にかかる給与報告書をもとにして家族ごとに管理しているからだ。ところが税務署は世帯別には管理していない。


 一方、市町村の税務課の人員は限られているが、税務署は源泉徴収制度に基づいて強力な調査指導ができる。

 

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そこで市町村は税務署に通知して税務署が会社に確認することになる。そして市町村の情報が正しければ会社に事実を確認させ誤りがあれば追徴するように促す。その後今度は逆に税務署からの連絡を受けて市町村が住民税を追徴するように会社に通知する。大雑把に言えばこうだ。


 このように配偶者控除や扶養控除の誤りは簡単にチェックされる仕組みになっている。社会保険料控除や生命保険料控除などは納付証明や控除証明があるから問題になることは少ない。


寄付金控除も受領証明書などが必要だから同じだ。ところが医療費控除については大きな問題がある。


***


 悲しいかな歳を取ると医者にかかることが多くなる。もちろん歳に関係なく難病を患うなどして多額の医療費を支払う場合もある。医療費控除による税金の還付は受けない方が、つまり健康がいいに決まっているが生身の身体だ。治療費の領収書があれば税金が戻るのはありがたいが、一年間の治療費や通院費を計算するのは大変だ。


 ところで医療費控除制度の歴史は古い。当初は医者の確定申告がいい加減だったので医療費の領収書を集めるのが目的だった。言い換えれば領収書で牽制して適正な申告を促すためだった。だが、高齢化社会になると医療費の負担が当初の一割から三割に引き上げられたり、治療を受ける国民が増加して、少しでも税金を返してもらおうとする納税者が激増した。

 

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 本来健康保険制度で医療費問題を解決すべきなのに、医者の所得調査のために導入したこの制度がひとり歩きを始めた。


 溢れんばかりの領収書が税務署に集まった。一方、高額医療費の補助金制度や医療保険金の請求でも領収書が必要になるので提出した領収書の返却を求める納税者が増えた。公官庁というところは書類の保存管理がずさんなので領収書がどこにあるのか分からなくなって混乱した。たまりかねた国税庁がついに2017年分から領収書を提出しないことができるようにした。税務署の現場から見れば遅きに失した対処だった。現場は現状を報告しない(むしろおとがめを避けるために隠すことがある)し国税庁長官は現状などまったく知ろうとしない。行政の欠陥をさらけ出したようなものだ。


***


 現実的にはもっと重大な弊害が生まれた。それは医療費控除制度はいい加減で適当に計算して領収書を紙袋に入れて提出しておけば税務署から文句を言われることはないという風潮が蔓延したことだ。確かに医療費控除に伴う還付金額は知れている。だが問題は納税のモラルが極度に低下したことだ。信号無視しても駐車違反しても見つからなければ何でもありというのと同じだ。


「税務調査時に調べる」


 国税庁はアナウンスを流して牽制するが、納税者は気にしていないというより当局のいい加減さをよく知っている。実際事業所得の調査の場合、売上や経費の確認だけでも手間がかかるのでとても医療費控除の調査まで手が回らない。

 

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 調査を受けること自体が少ないので参考にはならないが、私の顧問先で医療費控除まで調査されたことはない。インプラントで六百万円も支払って医療費控除を受けた顧問先ですらフリーパスだった(医療費控除限度額は二百万円)。


 何年か前に電子申告をすれば医療費の領収書の提出を不要とする制度が始まったとき、私はすぐさま電子申告の利用を停止した。なぜなら不要だと言われても顧問先は「調査の時に領収書を確認すると言うのであれば先生のところで保管して欲しい」と希望するからだ。それに税務署の倉庫代わりを事務所がしなければならないのであれば紙の申告書を出して領収書を税務署に保管してもらった方が安全だ。しかも医療費控除の調査がなければ保存しておく必要はないし、もしあれば提出した領収書を確認してくれればそれで済む。


 医療費控除制度を抜本的に見直さなければならないのに国税庁は何ら手を打たない。国税庁だけの責任ではないだろうが、医療費の領収書の保管が大変なのに気付いて領収書の受け取り拒否をし始めた。しかし、郵送すればどうしようもない。国税庁を含む財務省は都合が悪くなると書類はないとか、破棄したとよく言うが、医療費の領収書についてはそれは言えない。


 医療費は国を挙げての最重要課題だ。つまり財務省だけの問題ではない。保険制度、医療制度の問題だ。たとえば過疎地の医師不足、薬のネット販売の問題、勤務医の過労問題、副作用の問題等々国民の生命に関わる重要問題だ。単なる医療費控除だけの問題ではない。

 

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 話が広がりすぎた。本書のタイトル「実話税務調査」から逸脱してしまった。しかし、健康問題がいかにないがしろにされているか気付いていただければ幸いだ。

 

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