第一話 消えた大金


 税理士になってしばらくすると上場を目指すメーカーの社長とお付き合いが始まった。しかし、顧問としてそのメーカーの申告書を作成する仕事ではなかった。上場に備えて社長一族の資産を会社から切り離す準備をして欲しいという依頼だった。ある意味重要なことなのでうれしかったが、実際の仕事は社長の相続税対策だ。社長はその会社のほとんどの株を所有している。上場すれば大もうけするが、財産も巨額になる。


 気に入られたこともあって社長はしばしば夜の街に連れて行ってくれた。上場を目指す豪腕社長は夜の遊びも豪快だった。それが原因か分からないが、志半ばで倒れて入院生活が始まる。意識はしっかりしていたが病院で死亡した。多少相続税対策をしたが膨大な財産が残った。妻や子から相続税申告書の作成依頼があったことは言うまでもない。


***


「亡くなる二日前、定期預金を全部解約して病院へ持って来いと言われました」


 四十九日が過ぎた頃、未亡人から謎めいた告白を受けた。少額な定期預金は省略するが、約五千万の定期預金が二口あった。未亡人は翌日解約して現金と利息の計算明細書が入ったふたつの紙袋を豪華な病室に持って行った。


「これはそのまま家に持って帰れ。こっちはロッカーに入れておけ」


 夫の命令は絶対でそのとおりにして妻は帰宅した。


 翌日社長は亡くなった。しかし、ロッカーから約五千万円の現金が入った紙袋は消えていたと言う。

 

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 私は絶句した。難易度の高い相続税の申告書を作成しなければならない。元税務職員の私には結末が見える。このような場合消えた五千万円を手元現金として申告しなければ税務署は納得しない。「ある」という証明は容易いが「無い」という証明は不可能だ。よく臨終間際になると葬式に備えるために銀行から現金を引き出すことがある。ただし葬式費用のためと言うよりは引き出してしまえば申告しなくてもいいと考える相続人もいる。それは論外で軽率だ。


「ところでもう一方の五千万円はどうされました?」


「金庫に保管しています」


「貸金庫?」


「いえ、自宅の」


「見せていただけますか」


 未亡人が立ち上がると寝室に案内してくれた。部屋の隅にそう大きくない金庫があった。丸いダイヤルに触れることもなく取っ手を握って開く。


「鍵をかけていないのですが?それにダイヤル……」


「邪魔くさいから」


 未亡人が銀行名が印刷された紙袋を取り出す。


「解約したときのままです。一切手を付けていません」

 

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「確認させてもらっていいですか?」


 紙袋を受け取ると中身を取り出す。まず定期預金解約計算書の金額と中身が合うか確かめる。


硬貨は小さな封筒に入っていて端数まで計算書どおりだった。現金と計算書を元に戻す。


「ホッチキスかセロテープはありますか?」


 未亡人の横にいた息子が立ち上がる。


「持ってきます」


 その間に金庫の中を覗き込む。不動産の古い権利書やビニール袋に入った記念硬貨があるぐらいで大したものは入っていない。場を和ませるために記念硬貨を確認しながら尋ねる。


「コインを集めるのが趣味だったんですか」


「いいえ。銀行員が気を利かせて発行の都度くれたものです。ただではありませんが」


「日本の記念硬貨は発行枚数が多いのであまり値上がりしませんが、相場を調べてみます」


 息子がホッチキスを持って戻ってくる。


「この現金が入った袋の口を厳重に止めてください」


「なぜ?」


「別にこのお金がなくても困らないでしょ?」


「はい」


「解約したときのままの姿を維持しておきたいのです。税務調査の時、一方の五千万円は確かにここにあると弁明するためです」

 

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「まだ申告もしていないのになぜ調査が入ると分かるんですか」


***


 応接室に戻る。


「電話番号の早見表はありますか?」


 未亡人が部屋を出る。その間息子に尋ねる。


「社長の手帳は誰がお持ちですか」


「私が」


「今お持ちですか?」


「会社に置いてます」


「じゃあ、後日お伺いしたときに見せていただきたいのですが」


「分かりました」


「社葬でしたが、香典帳は自宅に置いていますか?それとも……」


「それも会社です」


 未亡人が戻ってくる。記載された電話番号の件数は意外に少なかった。


「これを預かるとご不便でしょうから、後で確認させていただきます。さてと、一番の問題は消えた五千万円です」

 

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 説明を終えると未亡人がきっぱりと言い切る。


「無いものは無い。なぜ申告しなければならないのですか」


「もちろんです。でも税務署は黙っていません」


 仕方なく言いにくいことを口にする。


「何か心当たりはありませんか」


 未亡人の横顔に無念さがにじむ。そのとき息子が私の袖口を掴む。


「この件についてはまた……まずはこれ以外のことについて……」


 そのまま私を応接室から引っ張り出すと息子が囁く。


「先に手帳と香典帳の確認を」


 母親に対する気遣いと察した私は一緒に自宅を後にする。


***


 車中、息子、つまり現社長に詫びを入れると逆に恐縮されるが、きっぱりとした言葉が返ってくる。


「恐らく愛人に渡したんじゃないかと」


「そうでしょうね」


 自宅と会社は近い。車で一〇分足らずの距離だ。赤信号で手渡された電話の早見帳を見る。私の事務所の電話番号も記載されている。しかし、個人名は同姓が多い。

 

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「○○は」


「それは母方の親戚です」


「●●は」


「父の母方の……」


「後は役員や社員の自宅の電話番号ですか」


「そうです」


「会社に着いたら、銀行や証券会社や保険会社の電話番号が記載されているページのコピーをお願いします」


「分かりました」


 車が社長専用駐車スペースに滑り込む。


***


 社長室で前社長の手帳を確認した後尋ねる。


「これ以前の手帳はありますか」


「ありません。いえ、あるのかも知れませんが、分かりません。ただ業務用のノートのような手帳は二〇年分以上あります」


「業務日誌のようなものですか?」


「そうです」

 

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 私用の手帳は年が変わると破棄されたようだ。息子が机の袖の開きから大量の手帳を取り出して私の前に置く。


「これを残してくれたので非常に助かっています」


 私はその一冊を開く。几帳面な文字で書かれた内容を見てすぐ閉じる。一方私用の手帳の予定表には文字は少なく赤や緑の記号が書かれているページが多い。しかし、電話番号のページには数字のみが記載されて末尾にはローマ字の大文字が書かれている。


「どう思われます?」


「多分愛人の店か、自宅の電話番号かと」


「名刺ホルダーはありますか?」


「秘書が管理しています」


 秘書と言っても男性だ。会社設立当時の役員の息子だった。


「……ただ父が亡くなってすぐに机の中を確認したのですが……」


 息子が引き出しから名刺入れを取り出す。一〇数枚しか入っていないが、高級居酒屋や高級バーの名刺ばかりだった。なぜ高級と分かるのか?紙の質がまったく違うからだ。私用の手帳の電話番号と名刺の電話番号を突合するとほぼ一致した。


「お見舞いに来られた中にこの人たちはいましたか?」


「さあ。得意先や仕入先の役員が見舞いに訪れたときは同席しましたが、それ以外は業務の切り回しに忙しくて……それに私は下戸なので夜の付き合いは社長に任せっきりというよりは連れて行ってくれたことはありません」

 

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「要は病室で明らかに玄人っぽい女性を見かけたことはないのですね」


「はい」


 今度は香典帳を見る。数冊ある。もちろん私も参列したので盛大な葬式であったことは分かっている。


「ちょっと時間がかかりますから、仕事を優先させていただいて結構です」


「いつでも戻りますから遠慮なく秘書に伝えてください」


 社長が部屋を出ると早速さっきの名刺の飲み屋の名前と同じものがないか丹念に調べる。しかし、なかった。始めから現金が消えたことが分かっていれば、本葬だけでなく通夜にも行って焼香時に確かめる手もあったが、有効な手段ではない。なぜなら亡くなった社長に幾度も夜の付き合いをしたと言ってもすべての店に行ったわけでもないし、酒が入っているので記憶もいい加減だからだ。


 仕方なく隣室の秘書室に行く。


「差し支えなければ社長を呼んでいただけますか」


「分かりました」


 秘書が社内放送で社長を呼び出す。

 

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「ところで前社長の夜のお付き合いに同行されることは?」


「料亭での会食までは必ず同行しますが、それ以降はありません。先生もご存じでしょ」


 そう言えば二次会三次会まで同席したのは自分だった。もちろん翌日のスケジュールによっては中座もした。


「社長が戻りました」


「お通夜や本葬で玄人っぽい女性を見たことはありませんでしたか」


「見落としはあったかもしれませんし、得意先や仕入先の参列者に神経を集中してました。でも違和感を感じる参列者はいませんでした」


 社葬だから当然だろう。


「なぜこのようなことを聞くのかはおわかりですね」


「消えた五千万円を受け取る者がいれば愛人しかいませんものね」


 名刺入れを返しながら応える。


「片っ端から電話するわけにも行かないし、お母様に執拗に聞くわけにも行かない。どうしたものか」


***


 被相続人が経営していた会社はもう一社あったが休眠会社だった。私はその会社の顧問をしていないないのでまったく財務内容など知らない。しかし、相続税の申告の際には株価を計算して財産に計上しなければならない。

 

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上場を目指す会社は規模が大きいので株価計算は簡単だった。大きいから簡単だという説明は省略する。この休眠会社の顧問税理士に尋ねたところ案の定株価はゼロだった。ところがその会社には前社長から約五千万円の借入金があった。


「五千万円?五千万円!」


 思わず笑ってしまう。


「これだ!」


 すぐさま申告書を三通り作成する。


 一つ目はこの会社への貸付金五千万円はもちろんのこと消えた五千万円の定期預金を現金として相続財産に計上した場合。


 二つ目は貸付金五千万円は申告するが消えた五千万円を申告しない場合。


 三つ目はこの両方を申告しない場合。


 この三つ目の申告書の内容に対する言い訳は次の通り。


 私はこの会社の顧問ではない。休眠会社の株価は明らかにゼロだ。だから前社長が私にその会社の財務内容を告げることはなかったので私は確認を怠ってしまった。一方、消えた五千万円については存在が明らかでない以上申告対象から外した。


 この三案を奥さんと息子に説明する。もちろん息子には先に説明してある。返事はなかったが理解はしているようだ。

 

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「主人は万が一のことがあったら先生に任せなさいと、よく言っていました」


 そう言うと奥さんは席を立つ。


「時間をください」


「分かりました」


 玄関に向かう私に息子が声をかける。


「事務所までお送りします」


「助かります」


 車に乗ると息子が深々と頭を下げる。


「貴重な時間をおとりいただいたのに……」


「即座に返答していただくことは無理でしょう。じっくり考えていただくほかありません」


「先生。本当に第三案で凌げるのでしょうか。無いという証明は難しいとおっしゃっていましたね」


「そのとおりです。あるという証明は簡単だとも言いました」


「そこんところが……」


「でも今回の場合、消えた五千万円がどこにあるのかという推測はできます。でも証明はできません」


「確かに。あの名刺や手帳の電話番号にかけて『亡くなる一日前に現金を受け取りましたか』なんて聞けませんからね」

 

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「でも税務署なら」


「税務署は確認するのでしょうか」


「消えた現金が相続財産なのか、誰かに渡って贈与財産になるのか、いずれにしても課税財産になります」


 話が空回りし出す。休日のせいもあるが、意外と早く事務所に到着する。


「もうひとつ質問があるのですが」


 サイドブレーキを踏んで息子が続ける。


「第三案で申告すると過少申告加算税や延滞税に幅があるという『幅』とはどういう意味ですか」


「申告から漏れた会社への貸付金をお母様が相続するとすれば基本的には配偶者控除を受けられます。でも必ず受けられると言うものではないのです。詳しい説明は事務所で」


「いえ、戻ります」


 母親への気遣いを感じる。


「できるだけ先生の意を尊重して母親を説得してみます」


 助手席のドアを開けて降りると息子も下車して再び深々と礼をする。


「ありがとうございます」

 

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***


 結局第三案で申告した。そしてそれから一年そこそこで調査が入った。被相続人の自宅を訪れた調査担当者はやる気満々の若い国税調査官だった。一通りのやりとりが済んだ後調査官が切り出す。


「被相続人が亡くなる一日前に約一億円の定期預金を解約していますが、誰が解約したのですか?」


「わたしです」


 奥さんが即答する。


「解約したお金はどうされたのですか?」


「主人の入院先の病院に持って行きました」


「半分の約五千万円については財産の名称はともかくとして『受贈財産』として申告されているのは分かるのですが、残りの五千万円については申告されていません。どういうことですか」


 ここで私が引き継ぐ。


「『五千万円はお前にやる。残りの五千万円は病室のロッカーに入れておけ』と言うことでした」

 

 奥さんが頷くのを確認してから続ける。


「前者の五千万円は相続財産として計上しましたが、これは本来贈与税の対象ですよね」

 

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 この説明に調査官がきょとんとする。


「亡くなった年に受けた贈与は相続人の場合、贈与税を課税せずに相続税を課税すると相続税法に規定されています。なぜそのような規定があるのかご存じですか?」


「それは……」


「贈与は『あげます』『もらいます』で成立します。そんな贈与を相続税法であえて贈与税を課税しないと規定している。なぜなんでしょう」


「はあ?」


「それは計算が邪魔くさいからです。ところで何の話でしたっけ」


「えーっと。亡くなる前に一億円引き出して五千万円は申告していただいてますが、残りの五千万は申告していただいていません」


「それはそうでしょう。『あげる』と言われてないし『もらう』とも言っていない」


「でも、その現金は相続財産じゃないですか」


「いえ。亡くなった日に病室にはなかったのです。現金が勝手に歩き出すことはないから、きっと被相続人は残りの五千万円を誰かに贈与したのでしょう。それが相続人であれば相続財産ではありませんが、亡くなった年の受贈財産なので相続税法の規定どおり申告しなければなりません。もらった人が相続人でなければ贈与税の申告をしなければなりません。誰がもらったのかは分かりませんし、口頭で贈与契約が成立していたなら、現場に居合わせていないので事実は不明です」

 

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 返事に窮したのか調査官が少し感情的になる。


「先生は元税務署員なんでしょ。こんな時は手持ち現金として申告指導すべきだったのでは」


「いいえ。そんな乱暴な指導はできません」


 きっぱりと否定する。


「まず、無いという証明は不可能です」


 調査官のボルテージが上がる前に釘を刺す。


「まず盗まれたのではと考えました。この考えは不自然ですか?」


「あり得ますね」


「そうでしょ。でも被相続人の意識は無くなる数時間前までしっかりしていた……これは担当の医師に確認したから間違いないでしょう。一万円や二万円といった小銭ではありません。調査官だったら五千万円もので現金が消えたらどうしますか?」


「すぐ看護師か医者を呼ぶでしょう」


「そのとおり。でも呼ばなかった。しかも被相続人は病室からでることはできない。納得の上で誰かに手渡したとしか考えられませんよね」


 調査官は何か発言しようとするがグッと堪える。


「言いたいことは分かります。次に『残りの五千万円を隠せ』と指示したのではと考えましたが、やはりそれはあり得ないでしょ」

 

[22]

 

 

「……」


「死期が近い人間が、わざわざ預金を解約させて『半分はお前に、残りは隠せ』と指示するでしょうか?そうすると奥さん以外の誰かに渡したと考えるのが自然では?」


 まったく返事はない。


「私も元は税務署員。あらゆる資料を分析してその誰かを探そうとしましたが限界がありますし権限もありません」


 このとき奥さんがフラフラと立ち上がるとそれまでの気丈夫な声とは違って聞き取れないぐらいの声を出す。


「気分が悪くなりました」


 息子が慌てて支えると部屋を出て行く。この事態に調査官が狼狽える。息子がいた席の横に置かれた高級な菓子箱を調査官の目の前に置く。


「電話の早見帳。名刺フォルダー。手帳。香典帳。参列者の名簿……じっくりと精査してください」


 そのとき息子が戻ってくる。


「大丈夫ですか」


 息子が複雑な表情をする。

 

[23]

 

 

「医者を呼びました。血圧が……上がっているようです」


 調査官が意を決して発する。


「今日はこれで終わりにします」


「申し訳ありませんね」


 そのまま部屋を出ようとする調査官に声をかける。


「電話の早見帳や香典帳は?折角ですから持ち帰って検討しては?」


 調査官は鞄を広げてそれらを詰めようとする。


「少し冷静になってください。預かり証を。なんなら私が作成しましょうか?」


***


「亡くなる直前に定期預金を解約したにも関わらず申告していないのは結果として隠蔽したと疑われても仕方ないのでは?」


 税務署の狭い一室で私は担当の調査官とその上司の統括調査官と向き合う。


「隠蔽しようにも病院内ですよ。しかも本人は動けない。意識がはっきりしていると言うことは自分の体調を把握している。担当医が奥さんに『いつ容体が急変して死亡するか分からないとは伝えてないが本人は覚悟していたようだ』と言っていたのはご存じですよね」


「そこまで確認していません」


「えっ!一番肝心なところでは?あっそうか。だから先ほどの言葉が出てきたのですね」

 

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「そう意味で申し上げたのではありません」


「でも死に際……特に病院で一生を終える人をしっかりと見ている人はプロの医師であり看護師です。当然聞き取り調査をすべきでしょ」


「できるだけ税金を払わずに相続人に財産を残そうとするのが普通じゃないですか」


「もちろん、そうでしょう。でも相続人以外に大切な人がいたらどうでしょうか。ところで調査官は結婚されているのですか?」


 調査官が頷く。


「まだ若いから奥さんのことを愛しているでしょ?」


「まあ」


「被相続人は上場を目指して会社を大きくしました。でも奥さんは役員にもなってませんし株も持っていません。不自然だと思いませんか」


「何が不自然なのですか?」


「私は幾度も、と言っても年に数回ですが被相続人に誘われ夜の付き合いに同行しました。誰が見ても愛人がいる可能性を否定できないような親密な女性を何人か見ました。もちろん相手も商売ですから私の勝手な想像かもしれません。それに私はいつも酔い潰れて気が付けば店が手配したタクシーで自宅に帰っていたから確信はありませんが……」


 決定的に攻める証拠を持ち合わせていないから調査官の口数は少ない。

 

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「被相続人のプライベートな資料も含め様々な資料をお渡ししました。例えば高級バーを経営するママさんの名刺。連絡を取って接触されましたか?場合によっては本件は贈与税の高額脱税事案かも知れません。大金が消えたから隠していると言われても私どもは対応できません。確信があるのなら更正してください。こちらから修正申告を提出するつもりはありません」


 他の銀行や貸金庫に現金を移動させた証拠があれば税務署はいつだって申告した数字を正しい数字に置き換えてこれだけ払えという更正処分ができる。


 ここで統括調査官が初めて発言する。


「分かりました」


 しかし、その一言で終わる。そして調査官を促す。


「話は変わりますが、関係会社に対する五千万円の貸付金の申告が漏れていますが」


「えっ!今なんとおっしゃいました?」


 詳しい説明を受けてからもっと大きな声で反応する。


「私は本体はもちろん関係会社の顧問をしていませんので休眠会社同然で株価はゼロだという顧問税理士の言葉を鵜呑みにしました。そんな多額の貸付金があるなんて……」


 狼狽えた表情をしようとするが……


「私のミスです。私の責任において修正申告を提出します。大変なことになった……」


 統括調査官の口元が緩む。そして調査官に告げる。

 

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「その貸付金を財産に加算した修正申告案を作成しなさい」


「はい」


「納付書も用意しなさい」


 調査官が部屋から出るとおもむろに統括調査官が頭を下げる。


「私どもの立場を考慮していただきましてありがとうございました」


 そう言い終えると今まで厳しかった表情を一気に緩ませる。


「貸付金に気が付かないなどあり得ない。でしょ?」


 頷くが正面から肯定はしない。


「いかにこの調査を短くするのか。そうしないと奥さんが精神的に参ってしまう。調査を受けるのは納税者にとって重い負担です。それをいかに避けるか」


「いずれ私も退職して税理士として第二の人生を歩むことになるでしょう。先生の対応、非常に勉強になりました。彼にも」


 統括調査官が立ち上がる。ほぼ同時に私も立ち上がると深々と頭を下げる。


「ありがとうございました」


 統括調査官がドアを開けると先に出るように促される。


「ご苦労様でした」

 

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