* サブマリン八〇八*
「勘のいいヤツがいたら、通信が一方通行だと気付くはずだ」
「電波は届くが、電波が出て行くことはない」
「だから、透明なんだ。トリプル・テンはすべての光波、電波を吸収して反射させない」
「真っ黒なのに不思議な物質だ」
「そろそろ、連絡を取ってみるか」
「誰に?どうやって?」
「国連の事務総長」
「今や事務総長に信頼を置く国が多くなった」
「常任理事国を除いてだろ?」
「フランスは国連派だ」
「ニュースによればな」
「イギリスもアメリカ寄りではなく国連寄りだ」
「不思議なことにいつも高飛車な中国も国連寄りだ」
「チェンという元海軍大佐が首脳部の絶対的な信頼を取り付けたようだ」
[146]
「それに鈴木も。ところでノロ。北京大学にいたそうだが、チェンを知っているか」
「チェン、有り触れた名前だ。それに鈴木も。艦長、鈴木は海上自衛隊の一佐だった。知っているか」
艦長は返事を保留する。ノロはそんな艦長の表情を見逃さないが話題を元に戻す。
「国連を訪問するのは少し危険だ。アメリカが依然として国連を見下している」
「それにロシアも曲者だ」
「どうする?」
「色々な情報を分析整理すれば答えはひとつ」
艦長はもちろん司令所にいる全員がノロに注目する。
「チェンと鈴木を本艦に招待する」
「今や、あのふたりは事務総長に次ぐ国連の重要ポストに就いている。しかし、鈴木は日本人だ。チェンだけを招待する方がいいのでは」
ノロは首を傾げるが、艦長の言葉が続く。
「私達は全世界を混乱に陥れた張本人だ。招待するなら慎重に人選すべきだ」
「確かに。一応俺たちは日本人だからな。変な詮索をされるかもしれない。だからこそ、ふたりとも招待するんだ」
「しかし、どちらがナンバー2か分からないが、あのふたりは国連のナンバー2とナンバー3
[147]
だ。招待するにしてもどちらかになるだろう。さっきも言ったようにチェンの方が無難じゃないか」
「こちらからチェンを指名するなんて返って作為的だ」
「……」
「国連はすでに本艦に気付いている。本艦の招待を断るなんて考えられない。つまり国連の重要人物になったあのふたりがこの誘惑に勝てるはずがない」
「分かった」
艦長が引き下がる。
「どのようにして招待状を届けるんだ」
「タクラマカン湖に行く。長老、頼めるか」
応えたのは長老ではなくイリだった。
「わたしが中国政府を通じて国連に招待状を届けるわ。任せて」
「任せる」
ノロがイリに微笑むと艦長が命令を下す。
「タクラマカン湖へ!」
「今度はゆっくりと大気圏突入してくださいね」
イリが艦長とノロを見つめる。
[148]
「それに強力な冷房をお願いします。エスキモーの服を着るぐらいにね」
* タクラマカン*
タクラマカン湖上でゴムボートに乗ったチェンと鈴木が目を凝らして周りを見渡す。
「間もなく約束の時間だ」
にわかにゴムボートの近くで波が発生する。しかし、何も見えない。
「チェン!座れ」
ゴムボートが大きく揺れ始めると、どこからか声がする。
「ロープを投げる。それを掴んでたぐり寄せろ」
何もない空間から急にロープの輪が現れる。ふたりは言われたとおり踏ん張って一緒にロープの端をたぐる。
「なんだ!」
急に黒い艦体が現れる。
「潜水艦だ!」
鈴木は甲板の旧式の五インチ砲やセイルの二〇ミリ連装機関砲を見ながら叫ぶ。
「サブマリン八〇八だ!」
水兵がチェンと鈴木の腕を取ると、ふたりはサブマリン八〇八の甲板に立つ。逆にイリと長老と水兵がゴムボートに乗り込んで岸に向かう。
[149]
「司令所へ」
ふたりはセイル前の艦首側のハッチから司令所に降りる。
「榊?」
「艦長の榊司郎だ」
「榊司郎!まさか」
鈴木が一歩下がるとノロが叫ぶ。
「鈴木!」
「ノロじゃないか!なぜ、ここにいる!」
「オブザーバーとして本艦に乗務している」
今度はチェンが叫ぶ。
「ノロ!北京大学始まって以来、複数の学部を同時に最高の成績で卒業した天才」
「俺のことを知っているのか」
「断片的にだ」
「自己紹介を省略してもいい雰囲気だ。本題に入ろう」
丸い眼鏡の奥でノロの小さな目が光る。
* * *
「トリプル・テン!」
[150]
「くれぐれも誤解しないで欲しいのだが、メキシコ湾にあったトリプル・テンは地球に到達してから気の遠くなるような長い時間を経て微量だが少しずつ溶けた。更にハイチでの大地震後、メキシコ湾海底に巨大な空洞の存在を確認したが、近々その空洞にトリプル・テンが落下することが分かった」
「サブマリン八〇八がトリプル・テンを回収しなくとも、今と同じ混乱が起こると言いたいのだな」
「そうだ。言い逃れではない。説明したようにほぼ計画どおり回収できたが、その後の展開が全くの想定外だった」
「分かった。トリプル・テンの回収については事前に国連に相談したって誰も信じる者はいないし、逆にそんな事実が漏れればアメリカやロシアや中国が我先に回収作戦を展開したかもしれない」
チェンが大きく頷く。
「これからどうするんだ」
「まず、今報告したことを世界中の人々が信用するか否か」
「信用するとしたら」
「河を造って砂漠にできた湖の海水を元の海に戻す作業に専念したい」
「信用しなかったら?」
[151]
「全く信用しないことはないだろう」
「そうだな」
「信用してくれる者や国と良好な関係を持てるのなら、トリプル・テンを分析して解明したい。そのための設備や機器が欲しい。つまり、その協力者と手を組む」
「そういう良好な協力者がいなければ?」
「協力者を作るために、ふたりを招待した」
にわかに外が賑やかになる。
「イリが戻ってきました」
「国連での活躍を期待する。ふたりを甲板に」
「榊艦長。あなたは何歳なのですか」
「他人(ひと)に年齢を尋ねるのは失礼なことだ」
それまで柔和な表情をしていた艦長が鈴木を睨み付ける。
「失礼しました。いずれ本当のことを教えてください」
「本当のこと?どういう意味だ」
鈴木は応えずに頭を深く下げてから背中を向けてハッチに向かう。ノロがチェンと鈴木に付いていく。甲板に出ると鈴木に頭を下げる。
「艦長の非礼をお詫びする。俺も艦長の正体は知らない。しかし、信頼できるパートナーだ」
[152]
そのときイリが息を弾ませながら甲板に現れる。
「ノロ」
「イリ」
「あなたが欲しがっていた物を手に入れたわ。それに食料や水も」
* 国連*
事務総長との入念な打ち合わせのあと、チェンと鈴木が国連の議場に入る。そして報告はチェンが行った。
「以上です」
チェンが着席すると、それまでのざわめきが怒濤に変わる。
「日本の潜水艦ではない。日本の国籍を持っていない日本人が乗り込んでいる無国籍のしかも旧式の潜水艦だ」
さすが各国から選ばれたエリートである大使たちは冷静に手元のペーパーを再読する。
「アメリカ人も関わっているらしいが、アメリカ政府は承知しているのか」
アメリカの大使が大げさに両手を広げて応じる。
「詳しくは聞かされていない。しかし、この件に関わったアメリカ人もノロに潜水艦を提供しただけだ。それ以上の証拠がないので、今そのアメリカ人の名前を公表することは差し控える」
[153]
「公表しなくとも明らかだ」
どこかの国の大使が怒鳴るが、事務総長はアメリカ大使に気を遣って無視してチェンに尋ねる。
「チェン事務実務総長。今後の方針は」
「私が説明します。ご静粛にお願いします。後ほど質問をお受けしますから」
鈴木がチェンと交代してマイクを握る。緊張から解放されたチェンは事務総長と小声で話し合う。一方、鈴木が第一声をあげる。
「まず、サブマリン八〇八の今後の行動計画についてお伝えします」
議場が水を打ったように静まりかえる。
「巨大な湖となった元の大砂漠から河を造って湖水を海に流す。その作業を手伝ってもらう必要はないが邪魔をしないで欲しいという要請がありました。私は各国大使を説得すると約束しました」
「勝手な約束は越権だ。しかも潜水艦が河を造る話など信用できない」
血気盛んな新興国の若い大使が立ち上がって怒鳴る。しかし、ほかの大使が冷ややかな視線を向けると黙って着席する。すでに鈴木とチェンを信任した以上、文句を言う筋合いはない。
鈴木は怒鳴った大使に丁寧に頭を下げると説明を続ける。
「その作業をしながらトリプル・テンの解明をする。ただし、彼らには最新の分析装置がない。
[154]
要望に従って必要な機材の提供を約束した」
再び鈴木に何本かの不満の視線が向けられる。
「私はその分析結果についてはすべて国連に報告するとの約束を取り付けました。その報告の検証は漢民族ではありませんが、タクラマカン砂漠、いえ今はタクラマカン湖畔のイリ族が当たります」
急にチェンがマイクを握る。
「イリ族は平和主義者です。ノロという人物についてはすでに説明しましたが、イリ族の首長イリはノロを弟のように敬愛しています。そんな者に検証ができるのか、つまり情が入れば正確な検証はできないのでは、と危惧されます。しかし、彼女は情を持ってノロに接してはいません。彼女はこの事件直前に北京大学入学試験をトップで合格した理知的な指導者です。何にましてもイリ族は彼女を崇拝しています。そしてサブマリン八〇八はタクラマカン湖を母港としています。この件については中国政府が責任を持ちます」
「なんだかんだと言ってもトリプル・テンの情報を中国が独占するということじゃないか」
ロシア大使が叫ぶ。
「トリプル・テンに関する情報は中国でもなく、ロシアでもなく国連が管理し、すべての地球人のものとします」
チェンがロシア大使を睨むと中国大使に向かって大声をあげる。
[155]
「イリ族が支配するタクラマカン湖周辺を中国から独立させてください」
「そんなことをしたら、ほかの自治区が黙ってはいない」
「もう、国家の存在意義は薄れている。領土の広さという点では中国は日本の半分ぐらいになった。地形が変わり気候が変わって、安定的に食料を確保できない。イリ族は貧しい民族だったが、今や緑溢れる穀物が育つ領土を持った。認識を改めてください」
* サブマリン八〇八*
「美味しいな。イリを本艦のコック長に任命しよう……イテッ!」
ノロが頭を押さえる。長老の拳が言葉より先にノロの頭を直撃した。
「バカもん」
「暴力は止めなさい!長老」
「しかし、イリ様をコック長などと……」
「それはわたしが受けるかどうかということ。長老、出しゃばりは許しません」
「わーい。これから毎日うまいものにありつける」
今度はフライパンがノロの頭に激突する。
「ワシの料理はまずいのか」
本物のコック長が顔を真っ赤にしてノロの前に立つ。
「ノロ!大丈夫?」
[156]
床に倒れたノロをイリが抱き起こしてコック長を睨む。
「コック長を首にしなさい」
艦内に初めて心底からの笑い声が沸き上がる。元来ノロは人を笑わせるのがうまい。本人は真面目に言ったり行動しているのだが、端から見るとその言葉や行動が滑稽なのだ。しかし、笑いを製造する天才のノロでもメキシコ湾での事件以来、緊張の連続でそれどころではなかった。
「久しぶりだな。腹の底から笑ったのは」
いつの間にか食堂に現れた艦長がコック長から凶器のフライパンを取りあげるとノロに近づく。
「大丈夫か」
「ああ。でも、閃いた!」
「何を?」
「メキシコ湾の穴の活用方法を」
* 国連*
「各巨大湖と海を繋ぐ河を造っても結局はメキシコ湾の底に吸い込まれて元の木阿弥になってしまう」
「初めは小さな穴だったんだろうな」
[157]
「大量の海水が流れ込んで、今や直径一〇キロメートルぐらいの巨大な穴になっている」
「しかし、巨大化する湖の水を逃がさなければ、折角できたオアシスも水没してしまう」
「それどころか、周辺に大洪水を起こして、溢れ出した水が濁流となって湖より低い土地を呑み込むだろう」
「だから、とにかく河を造る。その水が回り回ってメキシコ湾の穴に落ちる。それでいい。取りあえず循環システムを構築して安定させる。これがノロの作戦だ」
「すごい発想だな。世界中の科学者を集めて知恵を絞らしてもノロひとりにかなわない」
「現場にいる者の強みだ。机上でどれだけ立派な理論を構築したって、現場の知恵を上回ることはない」
「ノロを国連に招致することはできないのか。直接本人に尋ねて今後の指針を示してもらえれば、各国首脳はもちろん全人類が安心し、納得するだろう」
「なぜ、サブマリン八〇八から連絡が入らないのだ。彼らは秘密主義者か」
「そうではありません。トリプル・テンに包まれているため、電波を発信してもトリプル・テンに遮蔽されて外部に発信できないのです。逆に外からの情報はすべて受信できます」
「一方通行か」
「イリ族に頼るほかないのか」
「そのとおりです。イリが鍵を握っています」
[158]
「信用できるのか」
「そんな意見は金輪際放棄してください。まず国家という概念を捨てましょう。奇しくも今回の事件で海というものが、どこの国のものでもなく、地球に住むすべての生物のものであることが身に染みてよく分かりました。長い歴史の中で大陸が移動したことは事実ですが、海水は絶えず移動しています。今、海水は海流となって大洋を移動するのではなく、血液のように地球の内部、つまり地球という体内を移動しています」
発言する者がいなくなる。誰もが感動を持って鈴木の言葉に耳を傾ける。首を振る方向が横から縦になって意思が共有される。
* サブマリン八〇八*
「とにかく、でっかいトリプル・テンを手に入れなければ」
「なぜ、大量のトリプル・テンが必要なんだ」
「俺のカンだ。カンが外れたら謝る」
「仕方がないな。しかし、大量のトリプル・テンを手に入れるなんて不可能だ。メキシコ湾ほどの巨大な陥没地はない。だから、メキシコ湾に注目してその底からトリプル・テンを回収したんだろ」
「地球のどこかにあるはずだが、確かに発見することは不可能だ。地球の化粧は派手で元の素顔を取り戻すことができない」
[159]
「どうするんだ」
「スッピンの美女を探さなければならない」
「?」
「その美女はすぐ側にいる」
「?」
「月だ」
「かぐや姫か」
「そうだ。月に向かう」
「潜水艦は宇宙船じゃないぞ」
「もう何回も大気圏外に出たじゃないか」
「航海長。進路を月に」
「無茶な命令はしないでください。月はどこにあるのですか」
「あそこだ」
モニターに月が映しだされる。
* 月*
「一番でっかいクレーターの中心に近づけ!」
「艦が震え出した」
[160]
「やっぱり、トリプル・テンが存在する!」
「不思議な物質だ」
「どうする?」
「メキシコ湾のときよりも簡単だ」
「方法は?」
「魚雷発射用意」
「クレーターの中心部に撃ちこむのか」
「そうだ」
「月のクレーターはトリプル・テンが衝突してできたのか」
「すべてじゃないが大きなクレーターはその可能性が高い。それに七〇%の確率でクレーターにトリプル・テンが存在するはずだ」
「ほかの小惑星や隕石にもトリプル・テンが存在するのか」
「前にも説明したが、宇宙には我々が目にする物質以外にダークマターやダークエネルギーが存在するが、そのダークマターやダークエネルギーが全宇宙に占める割合は約七〇%だ」
「だから七〇%なのか」
艦長が頷いたとき魚雷発射管室から報告が入る。
「魚雷発射準備完了」
[161]
「全魚雷発射!」
軽いショックを残して六本の魚雷がゆっくりとクレーターの中心部に向かう。音は聞こえないが中心部で砂塵が舞い上がる。やがて、真っ黒な固まりが姿を現す。
「トリプル・テンだ!ノロの言うとおりだ」
「かなりでっかい」
「直径約一キロはあります」
「どうやって地球に持って帰るんだ?」
「航海士。トリプル・テンに近づけ」
「あっ!近づかなくても、引き寄せられています」
「それじゃ、衝突しないようにゆっくりと降下しろ」
「ダメです。まるで磁石のようです」
「潜水艦に逆噴射装置があるわけもない。全員ショックに備えろ」
「ダイヤモンド同士がぶつかったら、どうなるんだ!」
「大丈夫だ。トリプル・テンはゴムのような性質を持っている」
「しかし、この速度でぶつかれば粉々になるぞ」
「なんとかなる」
「いい加減なこと言うな。ドンドン加速している!」
[162]
誰もが目を閉じようとしたその瞬間、クレーター底のトリプル・テンの中央部が大きく窪むと、サブマリン八〇八がその窪みに突入する。
「ショックに備えろ!」
艦内にミシミシという不気味な音が広がる。投げ出されるほどの震動はないが、乗務員に不安を与えるのに十分すぎるほどの揺れが続く。揺れが収まったとたん、艦内の照明がすべて消える。悲鳴があちらこちらから上がるが、目が慣れてきても一向に何も見えない。
「補助電源に切りかえろ」
「補助電源ボタンがどこにあるのか、見当も付きません」
艦長が腰の懐中電灯を取り出してスイッチを押すが、点灯しない。
「電気がすべてトリプル・テンに吸収されている」
周りがうっすらと蛍のような薄い緑色に包まれる。
「俺たち、蛍になってしまったのか」
「蛍のように点滅しない」
全員の身体が蛍光塗料を塗ったように輝く。そのお陰で周りの様子がなんとか分かる。操舵士が計器に顔を近づけて目を凝らすが、どの計器の表示板も暗いままで数字はすべて「8」に見える。
「トリプル・テンの捕獲に成功したとは言えないな。逆に捕獲されたような状態だ」
[163]
「どういうことだ!」
「トリプル・テンのサンプルは?」
「ここにあります」
誰かがジュラルミンケースを持ち上げている。ノロはそれを引ったくるようにして取りあげると中からピンク色に輝く硬化ガラスのカプセルを取り出す。
「トリプル・テンがピンクに輝いている。トリプル・テンがモード⑥に変態したんだ」
「補助電源を作動させます」
やっと補助電源ボタンを見つけた者がカバーを乱暴に取り去って押す。
「反応がありません」
「衝突のショックで補助電源装置がやられたのか」
「そうではない」
「ノロ、説明しろ」
「情報公開をしたいところだが、情報はない。あるのは想像だけだ」
「何でもいい。説明と対処方法を教えろ」
「黙ってくれ。想像中だ」
[164]