第三章  空飛ぶ透明潜水


*サブマリン八〇八*

「前方右二〇度、潜水艦を発見」


「彷徨っているんだ」


「こちらに気が付かないでしょうか」


「大丈夫だ。このまま前進」


「本艦の推進機はかなり派手な音をたてているはずです」


「気にするな。トリプル・テンのお陰で音は外へは漏れない。どこの国の潜水艦か調べろ」


「推進機の音からするとアメリカやロシヤの潜水艦ではありません」


「聴音機の感度を上げろ。みんな静かに」


「かすかながら、会話が聞こえてきます」


「非常事態だというのにどういうことなんだ」


「中国語です」


「こんな海域まで進出していたのか」


「そうじゃないだろう。海面が下がって本国に戻れずにウロウロしているのかも」


「すれ違いました」


[27]

 

 

「どこへ行くつもりなんだ」


「当てはないだろう」


「ノロ」


「なんだ」


「乗務員に余裕が出てきた。そろそろこれまでのことを総括してくれないか」


「そうだな」


 艦長がマイクを握る。


「全乗務員に告ぐ。そのままでノロの説明を聞け」


 艦長からノロがマイクを受け取る。


「俺たちはポンコツだが潜ることにかけては世界一の潜水艦、しかも船籍がない幽霊潜水艦で特殊な物質トリプル・テンを回収するためにメキシコ湾に潜った」


 頷く司令所の乗務員を見渡して言葉を続ける。


「そしてチューインガム作戦でトリプル・テンの回収に成功した。まずチューインガム作戦を振り返ってみる」


 ノロが目を閉じる。


「海底にめり込んだ比重二百もある非常に重いトリプル・テンを引き揚げるために、強力で海中でも衰えない粘着力を持つ特殊なチューインガムを使った。トリプル・テンはダイヤモンド


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より硬いが、不思議なことにゴムのように自由に変形する。つまりチューインガムと相性がいいのだ。チューインガムをトリプル・テンにくっつけて引っ張ると、丸いトリプル・テンがゴムのように伸びて海底から離れた」


 ノロが一息入れると艦長が肉声で感傷気味に笑う。


「この作戦をノロから聞いたとき、とても信じられなかった。騙されてもいいと思って参加したが、まさにノロの言うとおりだった」


「ありがとう、艦長。ところが、トリプル・テンは海底にめり込んでいたのではなく、メキシコ湾の一番深い中心部分の穴を塞いでいた。その穴の下はどうやら巨大な空洞になっていたようだ。だからメキシコ湾の海水だけでなく、大西洋や地中海、北極海の海水が吸い込まれた」


「太平洋やインド洋の海水もです。すべての海水が吸い込まれて海は消滅するのでしょうか」


 副艦長が割りこむ。


「メキシコ湾の最深部より深い海水は残るはずだ。話を元に戻すぞ」


 ノロが少し不機嫌そうに副艦長を睨む。


「これからの説明は俺の勝手な見解だ。海底から離れたトリプル・テンはゴムが伸びたようになって海面から空中に勢いよく移動した。このときトリプル・テンの不思議な環境記憶機能が空中に浮かぶことを記憶したのだろう」


 この驚くべき見解に誰もが沈黙するが、操舵士だけは大きく頷く。


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「底が抜けたバケツに吸い込まれるように本艦もメキシコ湾の最深部に錐揉み状態になって落下した。しかし、先ほど説明したトリプル・テンの環境記憶機能が本艦に作用して降下速度が減速し、逆に上昇に転じた。そして浮上した。浮上どころかそのまま上昇し続けたとき、アメリカ空軍のミサイル攻撃を受けたが、本艦を包み込んでいたトリプル・テンに助けられた」


 沈黙がノロの更なる説明を催促する。


「念のために言っておくが、すべて俺の独自の解釈だ。環境記憶機能とゴムのような収縮性を持つトリプル・テンは元の球体に戻るのではなく、ヒモのような形状を布のように広げて本艦を包み込んだ。そしてトリプル・テンのステルス機能で本艦は透明になった。目標を失ったミサイルに接触することなく、そのまま本艦は上昇し続けた」


 こんな話を信じる者は誰もいないはずなのに、首を縦に振る者はいるが、横に振る者はいない。


「更にトリプル・テンの環境記憶機能は本艦の水平舵、垂直舵の機能を学習したようだ。操舵士のコントロールどおり本艦はまるで宇宙船のように自由に空中を航行することができるようになった。更にこのトリプル・テンはブラックホールのようにあらゆる光や電波を吸収する。本艦には情報は入るが、情報が漏れることはない。外に向かって発信した電波はすぐ戻ってしまう。言い換えれば、本艦から外に向かう光までも脱出できずに戻ってくる。だから、外から本艦は見えない。本艦は透明潜水艦になった。まるで海中を遊泳するクラゲのように」


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 ため息がノロに向かう。そのため息を代表して艦長が一言発する。


「これから、どうするんだ」

 

* 防衛省*

「サブマリン八〇八のことを公表するのですか」


「しないし、そんな潜水艦は知らない」


「アメリカ空軍がサブマリン八〇八と遭遇しています」


「サブマリン八〇八だとは気付いていない」


「トリプル・テンのことを知っている人間は?国は?」


「我々とスミスとサブマリン八〇八の乗務員だけだ。スミスはスミス財団の理事長だ」


「我々とおっしゃいましたが、我々が知っているのは得体の知れないトリプル・テンという物質が存在することだけです」


「そのとおりだ。しかし、その方がいいのかもしれない」


「元海上自衛隊の潜水艦がメキシコ湾の底に穴を開けてしまった。この責任逃れは簡単にはいかない。ここは知らない振りをするしかないし、地球がどうなるのか模索するだけだ。トリプル・テンの回収に成功したのかどうか、それどころか安否すら分からない。我々はサブマリン八〇八と関わりはない」


「万が一、サブマリン八〇八が連絡を取ってきたら」


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「無視する。スミスが鍵を握っている。スミス次第だ」

 

* サブマリン八〇八*

「俺たちは海底に穴を開けてしまった。そして世界中の海水がその穴に吸い込まれている。大まかだが、メキシコ湾の海底より深いところにある海水は残るが、それ以外の海水はメキシコ湾の底に流れ込む」


「しかし、海面が一挙に数千メートル下がるとこの地球の環境が激変する」


「まず、陸続きになるところがワンサとできるな」


「国境が急変する」


「日本の領土が一気に拡大する」


「富士山がエベレスト並の高さになる。河は長くなって大陸棚から滝のようになって海に流れ落ちる」


 乗務員の想像する言葉を艦長は意見をはさむことなく黙って聞く。


「瀬戸内海は消滅する」


「いや、残るだろう。湖として。ニュースではそう言っていた」


 この言葉が想像の発言を停止させる。


「こちらから発信はできないが、あらゆる電波を拾うことはできる」


「取りあえず、情報収集だ」


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「そうだな。それに飽きたら今後のことを考えよう。今さらジタバタしてもどうにもならん」


「よし、浮上!大空から地球を観察しよう」


 海面を突き抜けて空高くサブマリン八〇八が舞い上がる。


「中央アジア付近が輝いているぞ」

 

* 国連*

 やっと緊急国連会議が開幕する。各国首脳が国連に集合したが、自国からの緊急通信を受けて携帯電話に向かってわめき散らすだけで一向に席に着こうとしない。


「静粛に!静粛に!」


 国連事務総長がマイクに口を付けて大声で叫ぶ。それでも雑音のような各国首脳の言葉が静まることはない。


「議場の様子は報道機関によってすべて中継されている。それなのに各国首脳が狼狽えていては、本国の国民の不安を助長するだけだ。黙って席に着け!」


 この開き直った事務総長の激が各国首脳に自制心を促す。様々な言語が徐々に消えてやがて大きな着席音が議場に響く。


「信頼を束にしてください。私を信頼するのではなく、とにかく結束してください。今地球は大きく変わろうとしています。隕石が落ちたのではありません。核テロ集団のグレーデッドの核攻撃が再開したわけでもありません。身近なところで海水浴ができなくなっただけです」


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 席に着いた各国首脳が一旦沈黙する。しばらくするとまばらな拍手が起こる。そしてそれが大きな拍手となる。


「ありがとうございます。しかし、残念ながら賛成反対を求める議案はありません。今後どうするのかという議論をするためだけに皆様に集まっていただきました」


 事務総長は静けさを取り戻した議場を見渡すとよくとおる声で訴える。


「誰がメキシコ湾に穴を開けたのかということは調査中ですが、その犯人を捕まえても現状は変わりません。もちろん犯人を庇っているのではありません」


 事務総長は議場の雰囲気を再確認すると完全に主導権を握る。


「様々な憶測が飛び交っています。まずは冷静に対応してください。この現状を捉えて自国に有利な方策は絶対に慎んでください。海面が急激に下がることによる地球上の変化はそれぞれの国の問題ではなく地球全体の問題です。すなわち、人類だけではなく、地球上のあらゆる生命の問題です」


 これまで経験したこともない事態に対して先ほどまでの興奮が消えて各国首脳は真剣に耳を傾ける。


「残念ながら、私が今皆様にお伝えできる情報は皆無です。お願いすることだけは山ほどありますが、一言で言えば各国で収集した情報をすべて国連に詳しく正確に報告して欲しいのです。しかし、その報告を分析対処する能力が国連にありません。有能な人材を国連に提供していた


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だきたい」

 

* サブマリン八〇八*

 自分たちのしたことが大変な事態を招いた驚きと後悔の念から脱することに成功した乗務員にノロは次なる明確な目標を提示する。


「これからなすべき俺たちの使命は地球の全生命体の意思をひとつにまとめあげることだ。自国の利益のみに固執して資源を争奪することがいかに馬鹿げているかを知らしめて地球上のあらゆる生命に対して責任を持つ重要さを人類に自覚させることが我々に与えられた使命だ」


「今回の事件が起きなくても当たり前のことじゃないか」


「そのとおり。誰もがいつでも同じ理想を持っているが、実現したことは人類の歴史上、一度もなかった。それを成し遂げるんだ」


「我々自身が神になると言うことか」


「我々は人間だ。神ではない。段階を踏む。この混乱に乗じて力がある国は自国に有利になるように行動するはずだ。それが地球、いや人類、いや、全生命体の未来にマイナスに作用することが明らかだとしてもエゴを押し通そうとするだろう。そういうエゴをすべてつぶす。仮に我々の行動が崇高なものだとしても、その国の最高責任者の命令であれば、我々の主張を無視してその国の市民は家族や国のために任務を全うしようとするだろう。そうすると何も罪のない人々と敵対することになるかもしれない。しかし、そんな人々に対して我々はそれを阻止す


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る権利はない。だから、そのような事態を避けて対処しなければならない。そのためにトリプル・テンを手に入れた」


「初めからそのようなことを考えてトリプル・テン回収作戦を敢行したのか?それなら、最初からに目的をはっきりと言ってくれればよかったのに」


「余りにもとてつもないことだったから省略した。すまん。ごめん」


「確かに信じられない話だ。いくら説明されて説得されても志願しなかっただろうな」


 この意見に全員頷くと、ノロが言葉を続ける。


「話を戻す。トリプル・テンを回収することに賛成してくれたのはあのスミス財団の理事長だ。スミスの意図するところはそのうち分かる時期が来る。ところで我々は今、エゴという海から理想という島を目指して航海し始めた。これからは捨て石になろうとも地球を守るために命を捧げる。このことを肝に銘じてくれ。英雄になるためではない。人類はもちろん地球のあらゆる生命の意志を背負って我々は船出する。本艦では上下関係はない。いつクーデターを起こしてもいい。ただし、エゴを徹底的に排除する。それ以外はすべて自由だ。トリプル・テンに包まれた本艦は恐らく無敵だ。だが、乗務員は人間だ。本艦の食料もいずれ底をつく。理想を高く持っても厳しい現実が襲ってくるだろう。それでも前に進む」


* 情勢*

 地球の姿が一変する。海が大きく後退して、陸地が半分以上を占める。軍隊を持つ国々は国


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連の事務総長の意見に賛成しながら、一方で自国の空軍と陸軍の兵力を増強する。


 まず、当面、海軍は全く役に立たない。いずれ空母の甲板はその機能を放棄して日光浴に適した小さなリゾート地になるだろう。空母の乗組員を戦闘機で本国に戻すか、それとも本国から兵糧を送って留まらせるかは各国首脳の大きな悩みになるだけだろう。


 空軍はどこにでも着陸できる垂直離着陸戦闘機と航続距離の長いヘリコプター以外はこの環境の変化に追従できない。


 そうすると陸軍がにわかに国防の表舞台に登場することになる。何しろ陸軍は自分の足で前進することを本分とする。海が干上がってしばらくはぬかるんでいるかもしれないが、雨期のジャングルと比べれば足元だけを注意すればいい。しかし、それは元大陸棚だったところだけで、やがて谷底に落ちるような海溝に向かう場所に到達すれば登山家の知恵を借りなければならない。


 もし、領土の見直しが行なわれば、小さな島々を領土としていた海洋国家が中国やロシヤを遙かに凌ぐ大国にのしあがるが、領土を守る軍隊はいない。カヌー中心の海軍が陸軍に編入されたとしても何の意味もない。


 目先のことを云々するのではなく、この地球の激変に大局観を持って将来を展望するのが指導者の責務だが、ほとんどの国の指導者は隕石が落ちて亡びた恐竜と同じレベルの思考力しか持ち合わせていなかった。


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 ひとつ言えるのは、消えた海水が地球のどこに貯蔵されたかを一部の科学者が研究し始めたことは救いだった。彼らは、地球内部は高温高圧のはずでそこに海水が長期間に渡って滞留することは不可能ではないか、と考えた。


 しかし、狼狽える指導者、つまり、大統領、首相、皇帝、国王、教皇等々最高指導者に聞く耳を持つ者はいない。もし、この異常事態を乗り越えることができなかったら、これまで築いた自分の地位が崩れ去ることばかりを心配して、正常な判断能力を失っていた。


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