* サブマリン八〇八*
「トリプル・テンだ!」
「あれが?」
「深度、再確認」
「四三〇〇メートルです」
「本艦の潜航許容深度を三〇〇メートル、オーバーしている」
「まだ、大丈夫です。バラストタンクに特殊な液体を注入していますから」
「そうだった。このサブマリン八〇八は深く潜ることだけが取り柄のボロ潜水艦だ」
「しかし、本当にあれがトリプル・テンですか」
「ケチをつけるのか」
太陽の光線が全く届かない深い海底で高感度カメラがかろうじて黒い球体の一部を捉える。
「これ以上近づけないし、小型潜航艇に探索させるほど快適な環境でもありません。どうするんですか」
「真上へ移動。これから何が起こるか、全く分からない。覚悟してくれ」
「全員、志願兵です。艦長!そろそろ詳しい説明があってもいいんじゃないですか」
[1]
「まず、ノロからトリプル・テンの詳しい説明を聞こう」
トリプル・テン。それはダイヤモンド(硬度一〇)より硬いのに、ゴムのように柔らかい。すなわち、柔らかいダイヤモンドだと想像すればいい。しかし、柔らかいのにダイヤモンドでこすっても傷は付かない。それでいて比重は二百。金の約一〇倍の重さだ。しかも硬いのに流動性比重が一〇で水のような滑らかさを持つ摩訶不思議な物質だ。このみっつの一〇というキーワードからトリプル・テンと名付けられた。理論的には宇宙に大量に存在しているはずだが、観測されていない。それがこのメキシコ湾の一番深いところで発見された。
ということだが、このことを理解しているのは艦長とオブザーバーとして乗り込んだノロだけだ。背が低く丸い眼鏡を掛けたそのノロという男が一旦説明を打ち切る。
「ラムネのビー玉のように、海底に埋まったトリプル・テンをどうやって取り出すのですか」
「任せておけ」
「と言われても、死を覚悟しなければならないほどの困難な作業なんでしょ?」
「そうだ。俺が全員の命を預かる」
「もちろん、全員、命を預けています」
「よし、今咬んでいるチューインガムを吐き出して例のボックスに入れてしっかりフタを閉めろ」
「えー!」
[2]
「冗談だ」
「例のボックスの中身はチューインガムなんですか?」
「もっと強力なものが入っている」
「まさか、チューインガムでトリプル・テンをくっつけて引き揚げようって言うんじゃ……」
ノロはにっこり笑うと口に含んだチューインガムで風船を作って破裂させる。
「作戦、実行!」
「わっ、分かりました!」
潜水艦の底から白い球体がゆっくりと降下する。
「切り離せ!」
「切り離しました」
真っ黒なトリプル・テンに白い球体が近づくが、暗黒の海底ではよく見えない。
「推定接触時間、三分を切りました」
「発光!」
白い球体の下部から眩いほどの輝きが周りを明るく照らす。しかし、その拡散した光は瞬く間に絞られるように細くなって真っ黒なトリプル・テンに吸い込まれる。白い球体が音もなく破裂するとドロドロとした液体も光と共に一緒に吸い込まれる。モニターは真っ暗で何も見えない。トリプル・テンがすべての光を吸収した。
[3]
「たぐれ!たぐれ!」
白い球体に繋がった鋼鉄製のロープが巻きあげられる。
「急速浮上!」
「バラストタンク排水!」
「垂直モーター、スイッチオン」
艦体が小刻みに揺れ始める。
「どうなっているのか、状況が全く分からなん。全員、ショックに備えろ!」
依然モニターには何も映っていない。突然「ガン」という強い音と共に真下に引っ張られるような衝撃が走ると、立っていた全員の身体が浮き上がる。
「何かにしがみつけ!」
サブマリン八〇八が海底方向に引っ張られたあと、今度は急速に上昇する。しがみつくことができずに浮き上がった者が床に叩きつけられる。
「今のところ、トリプル・テン引き揚げ作戦は順調に進んでいる。上昇速度を落とせ」
「垂直モーター、逆転!」
「チューインガムがトリプル・テンにしっかりとくっついているはずだ」
「ロープが伸びきらないように慎重に浮上しろ」
「問題はこれからだ。今、球体のトリプル・テンの上半分は細長くなって、滴のような形にな
[4]
っているはずだ。すぐに下半分も徐々に変形して栓をしていた海底から離れるはずだ。張力が消滅してチューインガムともども本艦に衝突する。その前に全速で急速浮上しなければならない」
「理解できますが、かなり無茶苦茶なような気がします」
「そのとおり。艦長のカンだけが頼りだ」
「全員に告ぐ。あの過酷な訓練の成果が目の前にある。成功したときの手柄は私にはない。全員に与えられるものだ。自信と誇りを持って対処してくれ。シートベルト着用!最大級のショックに備えろ!」
「張力が最大点に達しました」
「来るぞ!」
「垂直モーター、順転!最高出力に!風船魚雷発射!」
「張力、消滅!」
サブマリン八〇八が大きな衝撃を受けて海面に向かう。そのスピードの何倍もの早さでトリプル・テンがサブマリン八〇八を追いかける。艦首と艦尾の魚雷発射管から細長いものが一気に膨らんで巨大な球体になる。この風船魚雷はサブマリン八〇八の浮上を強力に推進する浮き袋だ。どんな魚が持つ浮き袋より強力な代物だ。
「深度を逐次報告しろ」
[5]
「三五〇〇……三四〇〇……三三〇〇……」
「一九〇〇……一八〇〇……一七〇〇……」
「垂直モーター、停止」
「八〇〇……七〇〇……」
「何かが接近してきます」
「何か?」
「三〇〇……二五〇……二〇〇……」
「潜水艦です!」
「何!風船魚雷、切り離し!」
「切り離しました!」
強い衝撃が走る。シートベルトが千切れて投げ出されて気絶する者がいる。
「浮上!」
モニターに青い空と海が映し出される。
「トリプル・テンは!」
サブマリン八〇八のすぐそばを黒くて細長いモノが空に向かって上昇する。
「照準をトリプル・テンに合わせろ」
「白い丸いモノが絡まっているぞ」
[6]
「風船魚雷だ!」
「上昇が止まって落下します」
「落下速度が加速するはずだ。海面に到達したとき、風船魚雷は比重二百もあるトリプル・テンの降下を阻止できるのか」
勢いよく海中から飛び出したトリプル・テンはまん丸い球体に姿を整えると降下し始める。しかし、その速度は加速することなく、ゆっくりと海面に達すると風船魚雷を浮き輪にして波間に漂う。
「成功したぞ!しかし、最後だけが想定外だった」
「潜水艦接近中。複数います」
「急速潜航!」
「複数の魚雷が向かってきます」
「魚雷発射準備」
「風船魚雷発射直後なので装填作業に数分要します」
「なんだと!操舵士。魚雷を避けろ」
「そんな!」
「左舷を二本通過。あっ、後続の二本が本艦に接近」
強烈な爆発音がしてビリビリという振動音が伝わる。
[7]
「どこに命中した?」
海上に浮かぶトリプル・テンに魚雷が命中して浮き袋が消滅する。すぐにトリプル・テンはまるで意思を持ったように沈み込むと真下のサブマリン八〇八に近づく。そして不思議なことに長い糸を巻き付けて玉になった球体が元の糸に戻るように解けてその先がサブマリン八〇八に向かうと艦体をグルグル巻きにする。それは一瞬の出来事だった。もちろん、サブマリン八〇八の乗務員でこれに気付く者は誰もいない。
「魚雷接近。わっ、命中します」
大きな爆発音と衝撃がして誰もが死を覚悟する。しかし、そのあと静寂が艦内を支配する。
「生きているぞ。反撃する。魚雷室!」
「発射準備完了」
「測敵開始」
「相手潜水艦をロック」
「全門発射!」
「向こうも魚雷を発射してきました」
「深々度へ潜航!」
「間に合いません」
複数の爆発音がしたあと、サブマリン八〇八の間近でも爆発音がして再び大きく揺れる。
[8]
「なんだ!本艦に魚雷が命中しているはずなのに!」
「スクリュー音が消えました。相手は全滅したようです」
「ふっ、浮上!」
浮上したサブマリン八〇八のセイル(潜水艦の甲板上の小さな艦橋のこと)に出たノロが背伸びして甲板を見つめる。そしてシュノーケル(空気取入れ口)を触る。柔らかい感触がノロの五感を刺激する。
「トリプル・テン!サブマリン八〇八がトリプル・テンに覆われているぞ」
「ということはトリプル・テンの回収作戦が成功したということになるのか」
「トリプル・テンが正体不明の潜水艦の魚雷攻撃から本艦を守ってくれたのかも」
なんとか現状を把握した艦長とノロが強く握手する。
「どこの国の潜水艦だったんだろう。艦長、思い当たることは?」
「いや、ない。おや、急に荒れてきたな」
艦長の言葉にノロは潜水艦が三角波に囲まれているのに気が付く。そして空を見上げる。雲ひとつない青空を眺めてから艦長の顔を催促するように覗く。
「風がない。おかしい。あっ!」
すぐそばに大きな渦巻きが見える。
「トリプル・テンを取り出して残った穴の中に海水が吸い込まれているのかも!」
[9]
「だとすれば、本艦も吸い込まれるかもしれんぞ」
「折角、トリプル・テンを手に入れたのに」
ふたりはセイルを降りて司令所(セイルの真下にあって潜水艦の中枢機能が配備されている部屋)にたどり着く。そのときサブマリン八〇八が大きく傾く。
「まずい!着席!シートベルト着用!」
「舵が効きません」
「巨大な渦潮が発生した!」
渦巻きの中心に向かってサブマリン八〇八が艦首を下に向けて旋回し始める。強い遠心力でシートベルトが腹に食いこむ。ノロは操舵士にしがみつく。
「深度不明!しかし降下速度が急加速しています」
「海底にできた穴に吸い込まれているんだ!」
誰かが叫ぶ。
「穴の向こう側が天国であることを祈ろう」
「あっ!上昇しているぞ」
下を向いていた艦首が反転して一瞬にして上に向かう。
「モーターを切れ!」
「まるで崖を登っているような感じだ」
[10]
「どうなっているんだ」
誰もが不思議そうに艦内を見渡しながら、隣や少し離れた者の顔を見つめ合う。勇気ある乗務員がシートベルトを緩める。
「本艦は水平を保っている」
そのとき、ノロが操縦士の膝上からドサッという音をたてて床に転がる。すぐに立ち上がると天井を見上げて声を出す。
「艦内の……なんと言ったらいいのか、艦内の引力というのか、とにかく正常だ」
全員シートベルトを外すと立ち上がる。
「確実に上昇している。まるで高速エレベーターに乗っているみたいだ」
震動も音もなく上昇する。
「ひょっとしてトリプル・テンの影響か?」
ノロの呟きに艦長が絶叫する。
「危険だ!着席!シートベルト!」
誰もがつま先に力を入れて肘当てを握りしめる。操舵士の目の前のモニターにどこまでも青い空が映し出される。ノロがシートベルトを外すとセイルを登り始める。
「やめろ!」
「潜水艦には深度計はあっても高度計はない。この目で確かめる」
[11]
艦長が慌ててノロを追いかける。ノロがハッチを開けると艦長の肩車に乗るようにセイルの外に押しだされる。
「わあ!」
ある程度高いところに上昇したと思っていたが、その想像を遙かに超える高度に達していることに驚く。強い風がノロを襲うがお構いなしに身を乗りだして下を覗き込む。メキシコ湾が一望できるほどの高度から、その中心部に大きな渦巻きが激しく回転しているのが見える。覗き込みすぎてノロの身体が浮く。
「ノロ!」
艦長がノロの短い両足を握りしめて引き寄せる。ノロは礼を言うこともなく大きな声をあげる。
「下を見ろ」
艦長がノロを床に降ろしてから慎重に下を覗く。
「海水が吸い込まれている!」
覗くのをやめて艦長がノロを見つめる。
「想像していたとおり、トリプル・テンはメキシコ湾という器の底の栓だったんだ」
すぐさまその意味を艦長は理解するが、その栓の下の状況を想像できないことが沈黙を強制する。ノロはそんな艦長の気持ちを察して説明しようと顔を近づける。そのとき轟音がふたり
[12]
に届く。その方向には両翼と尾翼に星印を抱いた戦闘機が五機見える。
「アメリカの戦闘機だ」
即座に現状を把握した艦長はすぐさま言葉を続ける。
「国旗を立てるわけにもいかないし」
むなしい声が本人自身に向かう。そのとき、五機すべての戦闘機からミサイルが発射される。本来あり得ない高々度の空間に浮かぶ潜水艦に対して戦闘機が取る行動はひとつしかない。
「ノロ!」
しかし、ノロは平然としてミサイルを見つめる。
「ショックに備えろ!それだけでいい」
ノロは屈むとシュノーケルの根本にしがみつく。すべてのミサイルが空中に浮かんだサブマリン八〇八の近くを通過する。
「やっぱり!」
[13]