46 腹を割る


「人口が多すぎる。国土が広すぎる。このふたつが中国の歴史であり現状です」


 国連の議場でチェンと鈴木が議題の趣旨説明を交互に行う。


「歴史上。中国以外にこのふたつの事案を何千年にも渡って経験した国はないでしょう」


「中国が膨らんだり萎んだりするたびに世界の歴史が変化しました」


「他の国やその周辺国の動きで歴史が揺れ動いたのも事実ですが、中国のそれと比べれば規模がまったく違います」


 国連で鈴木がチェンとともに中国が周辺国に与える影響の大きさを懸念する。


「アメリカの盗聴事件。ロシアのエネルギーを盾にした周辺国への圧力。そして両国の他国への軍事介入。大国の横暴は数えれば切りがないでしょう」


「この両国には中国ほどの長い歴史はありません。特にアメリカには」


「この数十年を顧みると中国ほど急成長した国はないでしょう。眠っていた竜が目覚めたのです」


「気が付けば十三億とも十五億ともいわれる人口を擁した巨大国家が猛スピードで走りだしました」


「象の大群が走るとまるで地震のようだという話を聞いたことはありませんか?まさしく中国

 

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という象が大地を疾走しています」


「しかし、人口では四分の一か五分の一に過ぎないアメリカの景気に翻弄されています。さらに中国から見れば小国の集合体のユーロの景気にも左右されています」


「新興国も急速に発展しています。まさしく地球の経済は大きな変化の渦の中をめまぐるしく移動しています」


「一方、かつての先進国には閉塞感がまん延しています」


「そして海面下降という地球環境の急変が追い打ちをかけました。太平洋の島国国家や日本、フィリピン、インドネシアなど大幅に領土が拡大しました」


「今まで砂漠だったところに巨大な湖が出現しました」


「このような環境の激変には一国だけの力ではどうしようもありません」


「湖の海水が溢れて大河となって故郷の大海に戻ろうとしますが、川の氾濫が流域の国々に塩害をもたらします」


「海面が下がるつど過去の国境線が意味を持たないどころか、紛争が絶えません」


 ここでふたりは間を置く。そしてチェンが続ける。


「いまこそが中国の出番です。そして大人として振る舞う必要があります。まさしく中国という竜が脱皮できるのか、どうか。これが今回のテーマです」


「まず、中国の周辺国ではアメリカやユーロより中国に期待しています」

 

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「ところが甘えようとする子供に親は体罰で対応しているように見えます」


 その周辺国の国連大使が頷き出すと中国の国連大使が立ち上がる。


「異議あり!」


「まだ、提案事項の説明中です。静粛にお願いします」


「我が国を愚弄するにもほどがある」


 チェンが制する。


「私は中国人です。全世界から尊敬される中国人になりたいのです」


「!」


 チェンの迫力に圧倒されて中国の国連大使が席に着く。チェンがほっとした表情を浮かべたとき、その大使が再び立ち上がると無言で出口に向かう。


「待ってください!」


 チェンが大声をあげると演台から降りる。


「大人の対応じゃない!」


 チェンの言葉に中国の国連大使は歩幅を広げて半ば逃げるように姿を消す。仕方なく演台に戻るとチェンは静まりかえった議場に深々と頭を下げる。


「議事の進行に不手際がありました。お詫び申しあげると共に招集責任者としてこのまま議事を進行していいのか、ご意見を伺いたいと思います」

 

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 そしてチェンは振替って事務総長を見つめる。事務総長は目の前のマイクに向かって簡潔に述べる。


「実務総長のチェンに議事進行の不手際があれば私の責任です。不手際だと判断した各国の国連大使は手元の採決ボタンを押してください」


 この採決は無記名投票を意味する。演台の後方上部のモニターに「1」という数字が現れる。鈴木がほっとして議場を見渡すとチェンは残念そうに頭を下げる。


「ありがとうございました。しかし、尊厳ある父親になるチャンスを中国は放棄した。残念でなりません」


 うなだれるチェンを見つめながら北朝鮮の国連大使が薄ら笑いを浮かべるのを横目に鈴木がなぐさめるように声を出す。もちろんオフレコではないが、正直なふたりの会話が議場に流れる。


「折角世界中が中国の実力を認めて父親に推薦しているのに」


「むしろ、息子の日本の方が大人として対応している」


 チェンが応えると鈴木が笑い飛ばす。


「そうだろうか。雷オヤジを恐れて顔色をうかがっているとしか思えない」


 直ちに日本の国連大使が手を上げようとするが自重する。


「雷オヤジ?」

 

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 挙手もせずにどこかの国連大使が尋ねる。


「何かにつけてすぐに大声で怒鳴りつける父親のことだ」


 鈴木が応答すると他の国の国連大使が手を上げる。


「今日は雷を落とさずに静かに消えたぞ」


 前代未聞のこの発言に議場が爆笑に包まれる。


「静粛に!静粛に!」


 チェンと鈴木が大声をあげると議場全体が大きな拍手に包まれる。まるでスタンディングオペレーションのようだ。ふたりの後ろに座っていた事務総長も拍手をしながら立ち上がってマイクの前に進む。


「皆さん!思い切り笑って、思い切り手を叩いてください」


 事務総長がチェンと鈴木に向かって強く手を打つ。つられてチェンも鈴木も大きな拍手をマイクに向けて打つ。北朝鮮を除くどこの国の国連大使も負けじと手を打ち続けるとついに北朝鮮の国連大使もぎこちなく拍手する。両隣の国連大使が近い方の手で北朝鮮の大使の肩を叩いて微笑みかける。全員から「おお」という驚きの声が上がると笑い声が広がる。そして事務総長が大きく頷きながらマイクに向かって叫ぶ。


「皆さん!ネクタイを外しましょう」


 チェンと鈴木が驚いて事務総長を見つめる。

 

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「これでいいんだ。チェン!ビールを用意してくれ」


「えー」


「中国のビールがいい」


 演台に何人かの国連大使の声が届く。


「異議なし!異議なし!」


 議場の外では各国の報道関係者が中国の国連大使を取り囲んでいる。


「事務総長が中国のビールを注文したのは本当ですか?」


「からかうのはよせ!」


 大使が血相を変えて記者団を振り切ろうとするが多勢に無勢だ。突然、画面の端に山本がマイク、いやビール瓶を持って現れる。


「山本さんだ!」


 田中が叫ぶと大家が山本を探そうと前屈みになってテレビを見つめる。


「さっきまでここにいたのに。どうなっているんだ」


 山本が取り囲む記者や中国大使の側近をスルスルと通りぬけて中国の国連大使に近づく。


「あっ!山本さんが大使にささやいている」


 山本がにこやかに大使の耳のそばで何か言っているがよく聞こえない。田中が画面の山本の

 

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口元にタッチする。


「すぐ手配してみんなで乾杯すれば」


 どこで手に入れたのか山本が瓶ビールを大使の手に押しつける。そんな山本を大使が不思議そうに見つめる。


「中国のビールを宣伝するビッグチャンスだわ」


 まるで催眠術に掛かったように大使は瓶ビールを受け取ると向きを変える。


「議場に戻るぞ」


 大使が側近に告げると山本が叫ぶ。


「通路を開けてください!」


 田中が手を叩く。


「おもしろいことになってきた」


 大家もはしゃぎ出すと反応するかのように山本が高い声を出す。


「皆さんも議場で乾杯しましょう」


 完全に山本のペースになる。大使の顔から緊張感が消えると山本にエスコートされて議場の入口に向かう。その山本はスマホで酒屋に連絡を取る。


「至急、滅茶苦茶冷えた中国ビールを一〇〇ダース国連に配達してください!」


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 中国の国連大使が現れると瓶ビールを高々と上げる。一瞬静まりかえるが、爆発したような拍手が起こる。チェンが駆けよって壇上に導く。すべての国連大使が立ち上がると拍手が収れんして一定のリズムを刻み始める。チェンが両腕を高々と振りながら行進すると大使も真似をする。慌てて側近が瓶ビールを取りあげる。


 チェンと共に大使が壇上に上がると再び拍手が起きる。チェンが何度も頭を下げる。いつの間にか鈴木も事務総長も並んで深々と礼をすると笑顔で議場を見渡す。


「誰がこんなショーを企画したんだ?」


 事務総長が鈴木に尋ねるが、その声さえ聞こえないぐらい議場が興奮の渦に包まれている。もう一度事務総長が尋ねると鈴木が大声を出す。


「中国ビールを注文したのは事務総長でしょ!」


「だが、一本ではひとり、ひとしずくしか当たらないぞ」


 そのとき山本がビールを満載した台車を押して議場に現れる。すかさず鈴木が叫ぶ。


「この素晴らしい大騒動を仕掛けた犯人が現れました!」


 山本のあとを何台もの台車を押して入場する国連職員が続く。反対側のドアが開くとグラスを持った職員が入ってきて素速く各大使の机にグラスを置いていく。


「国連が酒場になっていく」


 事務総長が腹を抱えて笑う。

 

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「飲む前から、みんな酔っている」


 鈴木が異様な雰囲気に呑まれてしまう。ポンポンポンという音と共に隣同士で相手のグラスにビールを注ぎあう。そして全大使がグラスを高々と上げる。事務総長が中国大使のグラスにビールを注ぐと大使は事務総長に、そしていつの間にかグラスを手にしたチェン、鈴木にもビールを注ぐ。だが鈴木のグラスには少ししか注がれない。瓶ビールが空になったのだ。すかさず山本が中国大使に新しい瓶ビールを手渡す。


「ありがとう」


 中国大使はすぐさま鈴木にそして山本が手にしたグラスにも注ぐ。


「乾杯を!」


 山本が催促すると中国大使が首を横に大きく振って山本を直視する。


「あなたが乾杯の音頭を取ってください」


 躊躇することなく山本が腕を伸ばすと叫ぶ。


「カンパーイ!」


「乾杯!乾杯」


 そのあと「ゴクゴク」という音が響きわたる。グラスを机に置く音がしたあと大きな拍手がとどろく。事務総長もグラスを演題に置いて議場を見渡す。


「いいかな」

 

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 すべての大使が着席する音が響くとキッとした静粛な雰囲気に変わる。


「これまでの若いふたりの実務総長の至らぬ言葉に不快感があったとしたら私の指導不足です。しかし、これまでの報告に落ち度はないし、すべての国連大使は黙って耳を傾けていた」


 ここで事務総長が座ると中国大使に演題前に座るよう目配せする。大使は近くにいるチェンと鈴木を和やかに見つめてからマイクに口を近づける。


「我が中国はまさしく大人です。そしてこの場で中国の代表を務める私も感情に左右されることなく皆さんの期待を裏切らない受け答えをする大人です」


 そして一瞬強面の表情に変えて続ける。


「しかし、わがままばかり言う子供には体罰も必要です」


 この言葉に議場の酔いが覚めて静寂に覆われる、そしてチェンががっかりして涙を流す。


「泣くな!見苦しいぞ。実務総長」


 そう言うと今度は大笑いする。


「我が国は仏教の国だ。自分の身を律さなければ、立派な親とは言えない。ましてや子供に体罰を加えるなどもってのほかだ。それに体罰は禁止されている」


 急に拍手が起こる。


「腹を割りましょう」


 チェンが中国大使に近づくと抱きしめる。

 

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「わかった。わかった……」


 急に中国大使の目から涙が流れると逆にチェンを抱きしめる。

 

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