「林さん、話を続けていただいても結構ですよ」
逆田が中年男性のコーディネーターの林を促す。
「時効だからと思ってしゃべりましたが、何か引っかかります。もう四,五年前のことなのに」
「長老がおっしゃっていたキャリヤの署長の面倒を見るのが副署長の仕事だと勝手に解釈しましたが」
「そうです。現場を知らない若いキャリア署長を無傷で財務省に戻さなければならない。そんな署長が赴任してきたときに運悪く副署長のポストにいると、胃が痛むほど気を遣わなければならないそうです」
「それが引き金で定年を一年残して退職するということですか」
「もちろん、それが原因のひとつではあります」
「と言いますと、他にも辞める理由があったのですか?」
「そうです」
「どのような理由ですか」
「長年勤めた税務職員は辞めると税理士になることが出来ます」
[343]
「でも税理士試験に合格しなければ税理士にはなれないのでしょ?」
「そうです。合格率の低い厳しい試験です。合格するのに何年も掛かる試験です」
「税務署に勤めていたら試験なしで資格が取れるのですね」
「昔はそうでしたが、今は内部試験があります」
「内部で?」
「税務職員と言っても、他の公務員と同じで独特の縦割り組織で、特定の税金の仕事しかしません」
「定年まで同じ仕事をするのですか」
「五十歳前後で管理職にならない限り、たとえば法人税の仕事だけをします。たまに他の税法、たとえば所得税の仕事を二、三年する場合もありますが、退職までほぼ系統の仕事をし続けます。つまりひとつの税法の仕事に特化するのです」
「言葉は悪いですが、専門バカを養成しているのですか。そうすると他の税金のことはあまり知らないわけですね」
「そうです。かといって税理士試験を受けた人が横断的にあらゆる税務に精通しているかと言えばそうではありません」
「こんな税金があるのかといった類いの税金がありますね」
「珍しくも何でもありませんが、たとえば健康保険は実は税金なのです」
[344]
「えー、社会保険料の健康保険が!」
「健康保険税という立派な税金です。でも計算の仕方を知っている税理士はほとんどいません。社会保険労務士が詳しい」
「税金というのは税法という法律だけで動いているのではなく、国税長官が発遣する通達で実務は動いています。税法だけでも難解なのに、法律より量が多い通達が幅をきかせます」
「いわゆる通達行政のことですね」
逆田が林の話に何とか追従する。
「ですから縦割り組織が必要なのです。何十年も同じ仕事をしなければ理解不能なのです。しかも通達にも書かれていない前例や慣習がはびこっています。それは空気なようなもので、長年の経験がなければその流れは理解できません」
「組織にはびこる慣習。民間企業ではそれが成長を阻害して最悪の場合倒産することもある。国や都道府県や市町村は潰れることがないから、慣習はゾンビのように永遠に生きながらえるということですか」
「高度な専門知識はもちろんのこと、管理職になって実務を忘れても組織に流れる独特の空気を掴む嗅覚は健在で、退職しても税理士としてその嗅覚を生かすことは可能です」
「なるほど。そうやって退職後も結構いい収入を得るのですね」
「ところが、現実は大きく変化しました。税務署を辞めても税理士で食っていくことがむずか
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しくなったのです」
「?」
逆田が絶句するのを尻目に、林がある税務署の副署長の話を再開する。
*
「どうも、定年が延びるようです」
副署長が茶碗を置く。
「定年は何歳ですか」
「六十歳です」
「六十五歳になるとでも」
「いいえ、そういう意味ではありません。定年は六十歳ですが、管理職になるとその一年前の五十九歳で辞めます。昔は二年前、もっと前は三年前……。ともかく、速く辞めなければならないというルールのもとで、それを錦の御旗にして早期退職して税理士事務所を開業する職員に国税局が顧問先を斡旋していました」
「そんなこと」
「林さん、知らなかったのですか」
「お恥ずかしい。だから二流記者なのか」
副署長の表情が緩む。
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「そんな林さんに親近感を覚えます。だから告白する気持ちになったのです」
「なんか、褒められているような、けなされているような」
林の苦笑に緊張感が完全に解けて打ち解けた会話に変わる。
「林さんが思っているようにあまり感心した制度ではありませんが、どうやら近々廃止されるようです」
「民間人が聞けばうらやましい制度ですね」
「自分で事務所を持たなければなりませんから『天下り』ではないと言えばそうなのですが、税務調査の対象企業に『いい職員がいるから顧問にしては』などと斡旋するのはおかしな話です」
「副署長をかばうわけではありませんが、斡旋を期待する企業も多いのでは」
「おっしゃるとおりです。何かと煙たい税務署の職員を顧問にすれば、それは強い味方です。皆まで言う必要はなさそうですね」
「でも、斡旋制度がなくても税理士事務所を構えれば顧問先を獲得できるのでは?」
「国税の組織に限ったことではありませんが、特に国税は強烈な縦割り組織です」
「存じております。背番号といわれているものですね。法人税の担当者は辞めるまで『法人』という背番号で転勤を繰り返す」
「私の背番号は『徴収』です。一時期、所得税の調査もしたことがありますが、それはわずか
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二年に過ぎません。法人税の申告書を書けといわれても書けません。私のような背番号を持つ者にとって斡旋は非常にありがたい制度です」
「それじゃ、『法人』の背番号や『所得』の背番号の職員は斡旋がなくても食っていけるんですね」
「それがそうではないのです。早期退職勧奨の対象者はいわゆる管理職です。管理職はすでに実務から遠ざかっています。ご存知のとおり税法は複雑難解、しかも毎年改正されます。一線の税務署の職員でさえ、改正についていくのにかなり苦労します」
「なるほど。斡旋制度がなくなるということは大変なことだとやっと理解できました」
「斡旋さえあれば、現役時代に培った人脈を利用して顧問先のニーズに応じることが出来ます」
「そこで斡旋制度があるうちに辞めるわけですね」
副署長が黙って頷く。
「しかし、本当にそうなるのですか」
「間違いありません。それに……」
副署長がいったん口ごもると林はじっと次の言葉を待つ。
「……それに退職金が減るのです」
「えー。給料は減らされているし、ボーナスもカットされたでしょ。そのうえ退職金もです
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か」
「よくご存知ですね。これからは五十五歳になると給料は上がりません。そのうえ退職金は減ります」
「退職金は長く勤めれば勤めるほど増えるものでしょ」
「それがそうではないのです。早く退職した方が多い」
「そんな!本当ですか」
頷く副署長に気後れして林が言葉を切る。
「本当です。キャリア署長の子守は疲れますが、親身になって支えれば彼らだけしか知りえない情報を『ここだけの話』として教えてくれることがあります」
「斡旋の廃止や退職金の減額の情報ですね」
「そうです」
「この話を副署長は同僚にされたことは?」
「ありません」
「なぜ、私に?」
「当然じゃないですか。林さんに『ここだけの話』というのと、心許せる同期や支えてくれる後輩に言うのとは次元がまったく違います。それに私自身、この『ここだけの話』の信憑性を証明する術を持っていません」
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「厳しいものですね」
「後々『あのとき辞めて正解だったな』と言われても『親の介護で辞めざるを得なかった』とウソしか言えない」
「でも仕事を投げだすように見られるのでは」
「私には娘と息子がいます。何とかふたりとも大学を出ました。恥ずかしい話ですが、娘は結婚して子供を生みましたが離婚して今、娘と孫を引き取って私が扶養しています。息子は就職できずフリーターです。もちろん同居しています。それに住宅ローンも残っています」
「そうですか。大所帯で大変だな」
そのとき電話が鳴る。慌てて副署長が立ち上がると受話器を乱暴に取りあげる。
「分かりました」
受話器を置いて副署長はフーッと一息入れてから林に深く頭を下げる。そして衣装ロッカーを開ける。
「署長がお呼びです。今日はこれで失礼します。また、おいで下さい」
上着を着ながら副署長が林に退室を促す。
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