百歳を越えて今なお評論家として活躍するコーディネーターが全身の力を振り絞って声を上げる。
「私は戦後しばらくして中央官庁の公務員に採用されました。その頃は人材がなく、国会議員も公務員もみんな若かった。みんな必死になってこれからの日本をどうするのか真摯に話合いアイディアを絞って寝食など忘れて働いた。もちろん満足な食事などできるほどの食糧はなかった」
急にそのコーディネーターが涙ぐむ。
「それまで日本を牛耳っていた人物は自害したり、戦争裁判で失脚した。だから経験もない未熟な若者が戦争でボロボロになった日本の復興に邁進しなければならなかった」
一番若い女性のコーディネーターが口を開く。
「長老」
「長老?私のことか?」
「はい。尊敬を込めてそう呼ばせていただきます。質問してもいいでしょうか」
長老と呼ばれたコーディネーターが頷く。
「その頃はキャリア制度というものはなかったのですか」
[334]
「元々キャリア制度というものは存在していなかったというか、そのような制度は法律上存在しません。つまり慣習化した制度です。公務員制度の最大の問題点はキャリヤ制度だけではなく、そのようなわけのわからない様々な制度がなぜ慣習化したのかという点です」
「前例踏襲主義のことですね」
「おっしゃるとおりです。物事が前に進むと本当は国民が頑張ったのに自分たちの力だと思うようになった。ちょうど設計士が、大工の腕で立派な家が完成したのにもかかわらず、設計図を自慢するのに似ている。つまり大臣や官僚たちは自分が日本を動かしているのだと錯覚した。国民はもちろんのこと、現場の公務員の努力を評価しなかった」
長老が言葉を続けようとしたときやはり若い男性のコーディネーターが質問を差しこむ。
「官僚と公務員とはどう違うんですか」
「官僚というのは中央省庁に在籍する幹部です。その数は全公務員の一パーセントもいません。高級公務員、いわゆるキャリア公務員です。話を続けてよろしいでしょうか」
質問したコーディネーターを含む全員が聞き手に回る。
「さて徐々に日本が復興すると官僚は、自分たちを頭のいいエリートだと勘違いし始めました。成功は自分の力で勝ち取ったもので、失敗は社会や政治のせいにするのが、人間のサガです。しかし、国家を動かす人は、成功は偶然か国民の努力によるもので、失敗は自らの過ちであることを肝に銘じなければならない。ところが、成功したときは自画自賛、失敗すれば責任逃れ
[335]
に終始する」
逆田が納得顔の数を確認してから長老コーディネーターを促す。
「キャリア制度についての詳しい解説をお願いできますか」
「分かりました。さて高級官僚は政局に明け暮れる政党に距離をおいて、人材確保に奔走しました。なにしろ戦争で人材が枯渇していた時期ですから、優秀な人材を集める必要がありました。もちろん事情は民間企業でも同じでした」
「時代が時代だけに、十分な給料など払えなかったのでは?」
意外にも先ほどの若いコーディネーターが質問する。
「そのとおりです。だが一方では安月給でも働かざるを得ない人がわんさといた」
「それでどうなったのですか」
長老が完全に主導権を握る。
「こういう誘いをしました。『給料は低い。だが、首になることはない』と。そのころの民間企業は今日儲かっても明日は倒産するかも知れないといった状況でした。皆さんならどうしますなんて野暮な質問はしません。そしてこれ以外に次のような裏取引があったのです」
核心が近づいていることを逆田を始め全員が、そしてこの放送を見ている両大家はもちろん田中や山本も瞬きすることなく、しかも目薬をさすこともなく見つめる。
「中央官署で働くには高度な学力や教養が必要です。そうするとその当時では帝国大学の卒業
[336]
生がふさわしい。この方針が後々尾を引くことになる。戦争で食うに食えなくて高校や大学への進学を諦めざるを得なかった有能な若者がここで切り捨てられた。時間があればこのような境遇にあった若者のすばらしい活躍を紹介したい。さて数少ない大学の中で、旧帝国大学はそこそこの歴史があり、優秀な人材を輩出してきたけれど、その数は知れていた。むしろ戦前は小学校……昔は尋常小学校といわれていたが……」
逆田がやさしく長老のコーディネーターに告げる。
「昔の呼び方は気にせずにしゃべってください。いまのところ、長老の話にわかりにくいところはありません」
「お気遣いありがとうございます。えーと、そうそう、小卒や中卒でも社会に出て知恵を絞って一人前に働いている子供がたくさんいました。社会という学校でそれなりに知識を身につけて起業した者や政治家や公務員になった者もいました」
「机上の理論より実学ですね」
「確かに論理思考に関しては学問を修めた方が有利でしょう。むずかしい言葉ですが、演繹的に物事を考える方が効率的です。しかし、実践を通して帰納的に物事を組み立てることも非常に有効な方法です。いずれがすぐれているかという問題ではなく、いずれも大事な思考方法です。さてここで一気に核心に迫りましょう」
逆田の視線を意識した長老のコーディネーターが一呼吸置く。
[337]
「旧帝国大学の流れを汲む国立大学を卒業した優秀な学生を高級公務員、つまり官僚候補生として採用しました。将来それなりのポストを約束して採用したのです。しかし、社会を知らない、しかも恵まれた環境の元で大学を卒業した人たちは即戦力にはなりません。ここで誤解のないように申しあげますが、恵まれた環境と言ったのはある程度学業に専念できるという程度の意味で、当時のほとんどの学生は今の学生とは違って苦学を強いられてました。当時の環境では勉強するという意味において小卒や中卒や高卒より恵まれていたという程度の次元です。
いずれにしても学歴が幅をきかすことになる種がまかれました」
長老のコーディネーターが言葉を切って逆田を覗き込む。
「私ひとりが発言し続けてもいいのでしょうか。それに放送時間は」
「まず、時間については心配無用です。つまり無制限です。それに他のコーディネーターは今のところ長老教授の聴講生です。私もそのひとりです」
「恐縮します」
「教授、講義を続けてください」
「分かりました。さて大卒だと言っても社会人一年生です。この幹部候補生を育てるためには現場を知りつくした下級官吏、いわゆる公務員を養成する必要があります。頑張って勤め上げれば末端組織の長、たとえば、警察署長や税務署長になれるというふれ込みで大量の低学歴の人間を採用しました。ところが先に社会に出たこの人たちがよく働く。しかも現場にいますか
[338]
ら調整能力に長けている。大量採用されていますから競争も厳しい。さらに将来小さな組織の長になることもなく不遇な待遇が待っていることなど知らずに黙々と働く。この人たちの知恵や努力が日本を活性化しますが、その手柄はすべて先ほどの幹部候補生である官僚に吸いとられてしまう。それでも一所懸命働く……」
長老コーディネーターが目を閉じる。涙を堪えているのだ。
「見苦しい姿を……申し訳ありません」
「休憩しましょう」
「休憩は必要ありません」
ズボンのお尻のポケットからクシャクシャのハンカチを取り出すと目頭を押さえる。そして一度咳払いをしてから長老は張りのある声を取り戻す。
「政府の底辺を支えた人々、いつの間にか官僚ではない公務員のことをノンキャリアと呼ぶようになりました。一方、採用試験が制度化されて、つまり二流の大学生や高校生が歯が立たない試験制度が実施されると、結果として学歴で将来の出世が決まってしまう。ここで採用試験の難度で、事務方のトップにまでなれるキャリアと、頑張っても末端組織のトップにしかなれないノンキャリアとが完全に峻別されました。学歴カースト制度、または採用試験カースト制度の誕生です」
「こんな経験をしたことがあります」
[339]
発言を求める中年男性のコーディネーターが手を上げる。長老に休息が必要だと思っていた逆田がそのコーディネーターを促す。
「林さん。どうぞ」
「取材である税務署に行ったのですが、署長は三十歳手前の若い人でした。私は毎年その税務署に取材するのですが、そんな若い署長は初めてでした。色々質問しても応えるのはその署長の親のような白髪の副署長でした。そこで初めてキャリアという意味を知りました。その副署長は一年前に赴任してきた人で、前回の取材の時は当時の署長には付き添いされませんでした。当時の署長はそこで定年を迎えました。もう時効だから披露しても問題はないでしょう」
逆田が頷くとそのコーディネーターが興味深い話を暴露する。
*
副署長室で副署長が上着を脱いで衣装ロッカーを開ける。
「どうぞ、お掛け下さい」
そう言いながらハンガーに上着を掛けて衣装ロッカーを閉める。
「子守みたいなものですよ」
副署長も応接セットの椅子に座ると苦笑する。
「署長は一年で交代するのですか」
「大概そうですね。まれに二年ということもありますが」
[340]
「副署長は?」
「大概二年ですね。まれに一年ということもありますが」
「今度の署長は若すぎますね。署長の重責が勤まるんですか。今日の取材でもリクエストしていないのに統計的な観点からのこの管内の状況を説明していただきましたが、結局私の質問に具体的に答えていただいたのは副署長でしたね」
苦笑しっぱなしの副署長の顔が真顔になる。
「私は定年まであと一年半ですが、今年辞職するつもりです」
「えっ、どういうことですか」
「記事にしないというお約束は本当ですか」
「もちろんです」
「ほとほと疲れました」
副署長は応接の椅子の背もたれに全体重を掛けるように座り直す。
「何からお話ししましょうか」
「なぜ、あんなに若い人が署長なのでしょうか。以前、税務調査はある意味、納税者との戦争だと聞いたことがあります。先ほど署長に権利意識が高まる納税者にどのように対応されているのかを伺ったとき、すぐさま副署長が答えられましたね」
そのときドアをノックする音とともに若い女性職員が入ってくる。一瞬、副署長の視線が乱
[341]
れる。その職員がふたつの湯飲み茶碗を載せたお盆を持ってふたりに近づく。
「ありがとう」
丁寧に応接セットのテーブルに茶碗を置くと軽く会釈して部屋から出て行く。副署長はその茶碗の湯気を見つめながら林にお茶を勧める。
「どうぞ」
何とも言えないさびしそうな雰囲気を打ち消すように副署長が言葉を慎重に選んで語り出す。
[342]