「大家さん。この二、三日、このテレビ、全く反応しませんね」
「結構色んな事件が起きているのに」
「他のテレビ番組を見て思うのですが、日本のスタジオにいるアナウンサーと海外で取材している記者とのやりとりが聞き苦しいと思ったことはありませんか」
「どういうこと?」
「遠いところと通信すると、いくら電波が早いといっても、少しタイムラグがあるんです」
「確かに。国際電話をしていると、こちらが言い終わった数秒後に相手の言葉が返ってくる。そのことか」
「そうです。僕はアマチュア無線をしていたから、よく分かるんです。たとえばこのようなことになります」
『○○さん、聞こえますか。そちらは今、夜ですよね。天気はどうですか』
「相手はまず『聞こえますか』に反応します」
『はい、聞こえ……』
「と言いかけて続く質問に言葉を止めてしまいます。つまり次の『夜ですよね』という質問に応えようとします」
[94]
『はい、真夜中の……』
「再び言葉を切ります。それは『天気は?』と続く質問に反応するからです」
「結局、聞き苦しい会話が続くんだな」
「そうです。僕ならこう言いますね」
『○○さん、聞こえますか?どうぞ』
『はい、聞こえます。どうぞ』
『そちらは今、夜ですね。どうぞ』
『はい、真夜中の二時を回ったところです。どうぞ』
『天気はどうですか?どうぞ』
『暗くて分かりませんが、音からしてかなり強い雨が降っているようです。どうぞ』
「『どうぞ』と言う言葉で区切っていくんだな」
「そうです。アマチュア無線ではこの『どうぞ』と言うのが基本的なマナーです」
「放送のプロがアマチュアの人たちがしていることをなぜ真似しないのか」
「真似するというレベルではなく、きちっと視聴者に伝えるという職業意識に欠けているような気がします。聞きたいことをドンドン質問する。自分の質問ばかり押しつけて、応える人の立場を考えない子供の会話と一緒です」
「田中さん!いいことを言うな。どうぞ」
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「そんなに褒めてもらうことではないと思いますが。どうぞ」
大家と田中はにこやかに会話を続ける。
「でもこのルールをキチンと守っている人がいる」
「誰だ?」
「宇宙飛行士です」
「そうかなあ」
「あくまでも宇宙飛行士の方です。地上の人は余り守っていません」
「わしには宇宙飛行士が『どうぞ』と言っていた記憶はあまりないなあ」
「テレビ通信の場合でしょ。それは」
「説明してくれないか」
「お互いの姿をテレビで確認できるから、相手の言葉が終わったことが何となく分かるんです。だから、いちいち『どうぞ』とは言わなくてもスムーズに会話が進むんです」
「そうか。しかし、お互いの顔を見ながら会話しているのにまったく一方的に自分の意見を言う者がいて、さっぱり何を言っているのか分からないこともある」
「それは?」
「テレビ討論会だ」
「政治家の討論会のことですね!」
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「そうだ」
「相手の言葉を遮ってしゃべりまくる」
「うるさいだけですね」
「かと思えば、まったく質問に応えずに話をすり替えることもある」
「アナウンサーが何とか本来のテーマに戻そうと割って入りますが、そのときは時間がなくなって、次のテーマに移らざるを得なくなる。結局、核心に触れることなく討論が終了してしまう。視聴者を馬鹿にしてるというか……」
意外に興奮し出す田中に大家が驚いて、「どうぞ」という言葉の核心に話を戻そうと田中の肩を軽く叩く。
「この『どうぞ』という言葉は大切な言葉だ。狭い通路で『どうぞ』と言えばお互い気分よくすれ違うことができる」
「そうか。ラッシュ時の満員電車で乗ろうとする人に『どうぞ』って隙間をつくってあげれば、『ありがとう』と言って乗りこむんじゃないだろうか。そうなればギスギスした車内が和みますね」
「この一言で住みやすくなる」
テレビがぱっと明るくなると電車内の映像が現れる。学生が老人に声をかける。
「お婆ちゃん、どうぞ」
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「ありがとう」
席を立った学生が老人に微笑むと老人が座る。山本の声が流れる。
「いつからか、こんな光景、あまり見かけなくなりました」
画面が変わる。
「車掌が車内放送で促しても誰も席を譲ろうとしないばかりか、足を組んで通路を狭くしています」
さらに画面が変わる。
「もうひとり座れるのに詰めようともしませんね」
逆田が山本に語りかける。
「お互い様なのに譲り合うということがありません」
次々と電車内の見苦しい光景が映しだされる。
「誰かが言っていましたが『どうぞ』という一言ですべてがハッピーになるのに、自分だけがハッピーになろうとしていますね。ハッピー・アイランドの人が聞けばマユをしかめるでしょうね」
「ハッピー・アイランド?」
「福島県のことです」
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