「大家さんが辞めろと言うから辞めましたが、これが最後の源泉徴収票です。結局、退職金は前借りと相殺されてゼロでした」
「見てもいいかな」
「いいですよ。それに教えて欲しいこともありますから」
「結構、いい給料をもらっていたんだな」
「こう見えてもシステムエンジニアとしては腕はいい方です」
「なんだ?そのシステム何とやらは」
「素人に説明するのは少しむずかしいな」
「コンピュータを使って何かするんだな」
「まあ、そういうところです。僕を含めて間違いのない仕事をする者が減っています」
「質が落ちたのか」
「そうです。人数は増えましたが」
「量が増えると質が落ちる」
「昔は一千万円以上稼ぐシステムエンジニアがゴロゴロいたと聞いています。だから、僕もシステムエンジニアになりました。でも、現実は厳しいもので、おっしゃるとおりです」
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「よく銀行のATMがダウンするが、そのとき必ずシステムに問題があったとよく報道される。田中さんはそんなシステムを造る仕事をしているのか?」
「そんな大それた仕事はしていません。数年前まではホームページを立ち上げる仕事が多かった。でも簡単にホームページを作れるソフトが進化して、近頃では小学生でもホームページを立ち上げています。当然作成料金が下がります。そして僕の給料も下がり始めました」
「小学生でも造れるのか。わしには理解できん」
「意外と単純作業です。コツさえ掴めば誰にだってできます」
「そんなに簡単なものなら、だれも頼まなくなるな」
「そのとおりです。それより不思議なことがありました」
「不思議?」
「僕の給料は毎年減るのですが、だから税金も減るんですが、社会保険料は減らない。いえ、増えるんです」
「そんなバカな」
「僕の先輩なんか四〇歳になったとき、激怒していました」
「介護保険料が加算されたんだろう」
「そうです。税金より保険料の方が恐ろしいと言っていました」
そのとき、例のテレビに電源が入る。
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「きっと、社会保険の関係の映像が流れるんだろう」
「多分」
安っぽいグレーのスーツを着た放送局の制服姿で山本が現れる。
「いわゆる専業主婦にも住民税の均等割が課税されることになりました。簡単に言いますと、無職で夫の扶養になっている配偶者、妻のことですね。その妻にも三千円から四千円の住民税が課税されることになりました。毎月ではありません。年間の金額です。野党やマスコミはこぞって反対していますが、私たちはそんなちっぽけな増税よりも社会保険料の負担増の仕組みを解明したいと思っています」
同じくグレーのスーツに身を固めた逆田が引き継ぐ。
「一日当たり一〇円程度の増税なんて、乱暴な言い方かもしれませんが、どうでもいいことです。もちろん、政府に加担しているのではありません。これを見てください」
源泉徴収票が画面一杯に映しだされる。
「これはあるサラリーマンの昨年の源泉徴収票です。この源泉徴収票というのはサラリーマンが一年間にもらった給料と税金の明細書です。こんなもの解説しなくても分かっているという方、手を上げてください。恐らくほとんどいらっしゃらないでしょう」
田中は否定もせずに解説を待つ。
「まず、左上の給与収入の額ですが、まさしくこれは一年間に会社からもらった給料の合計額
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です。もちろんボーナスも含まれていますが、通勤の定期代は課税対象になりませんから含まれていません」
画面から源泉徴収票が消えるが逆田は解説を続ける。
「次の給与所得の金額ですが、これはサラリーマンといえども経費がかかります。様々な職種のサラリーマンの経費をいちいち査定するのは困難ですから、ある決まったルールに基づいて給与所得控除として先ほどの給与収入の額から差し引きます。余談ですが、このサラリーマンの経費である給与所得控除が多すぎるとして減らそうとする議論が政府内にあります。しかし、今のところその議論に反対するサラリーマンの声は当放送会社にはまったく寄せられていません。ひいきの野球チームやサッカーチームが負ければ怒るサラリーマンもこの増税案については気付いていないのかも知れません。さて、恥ずかしながら、これが私の去年の源泉徴収票です」
数字が入った源泉徴収票の画面に変わる。
「年間の給料が420万円。確かお子さんは一人で三人家族でしたね。この給料ではかなりきつそうですね」
「我が社はなにせ貧乏放送局」
「そんなこと放送で言ったら首ですよ」
「言い直します。社員の給与を含めて質素倹約をモットーとする会社です」
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「余り感心しない言い回しですね」
「さて、社会保険料の欄を見てください」
「六〇万円も!」
「給料の約一四パーセントです」
「税金は五万円ちょっとですね」
「これは所得税、つまり国に納めた税金です。そのほかに住民税が約一〇万円ほど天引きされています。県や市町村の税金である住民税はこの源泉徴収票には記載されません。なぜならこの源泉徴収票は所得税、つまり国の税金の明細書だからです」
「そうすると所得税と住民税の合計額は一五万円ですね」
「そうです。給料の約三・五パーセントです。つまり社会保険料の四分の一です」
「えー、社会保険料は税金の四倍なんですか」
「そうです。サラリーマンは年金保険、健康保険、失業保険のみっつの社会保険を負担しています。会社もほぼ同じ額を負担しています。このうち失業保険料は年金、健康保険料と比べれば少額です。説明を単純化するために社会保険料は年金保険料と健康保険料のふたつだけだと仮定します。そうすると社会保険料六〇万円の内訳は年金保険が三〇万円、健康保険料が三〇万円となります」
「年金保険料は老後のための貯金みたいなものですから許せるとしても、健康保険料は少し高
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いような気がします」
「そうですか?山本さん。年金保険料がちゃんと管理運用されていればいいのですが、旧社会保険庁の不祥事を見ると、将来、年金をきちんと受け取れるかどうか分かりませんよ」
「脅かさないでください。でも、私はほとんど医者にかかることがありませんから、健康保険料を支払わないで済むなら、そっちを選びますね。仮に病気になっても診察代の三割も負担しなければならないから、拒否したいわ」
「山本さんのように若くて健康な人にとっては不要かもしれませんね。でも若いときは健康保険制度に加入しないで歳をとったら健康保険料を支払って三割で済ませるなんていうことになったら、保険制度そのものが成り立ちません。健康保険とはある人が不慮の病に冒されたとき、みんなで助け合おうという制度です」
「もちろん、理解しております」
「さて、始めに申しあげましたが、マスコミにあおられてわずか年間数千円の増税に大騒ぎしますが、はるかに高い社会保険料については税金ほど話題になりません。もちろん、旧社会保険庁の不祥事については非難ごうごうでしたが、そのとき社会保険料の額が高いという報道はほとんどありませんでした」
所得のない専業主婦に数千円の税金をかけることがけしからんという見出しの新聞が画面に映しだされたあと、社会保険庁の不祥事を糾弾する新聞の記事が流れる。
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「社会保険料を下げるから、税金を増やすと言われれば、やはりイヤですね」
「なぜ、そのような気持ちになるのか分かりますか」
「うーん。社会保険料はその使い道がはっきりしているからでは?税金は何に使われているか分からない。確かに教育や経済振興や公共事業や災害対策や、それに防衛に使われているんでしょうが、直接リターンされているという感覚はありません。だからですか?」
「確かに。安い保育料で子供を預かってもらっている保育園に子供を迎えに行くときには一瞬税金の有り難みを感じることはありますが、『税金で自分たちが助かっている』という感覚はありませんね。むしろ公務員を養っているという感覚が強い」
「同感です。最近でこそ役所は親切に応対してくれますが、それまでは随分横柄でした」
「ところで山本さんは自分の源泉徴収票を見たことがありますか」
「お恥ずかしい話ですが、見たことがありません」
「大多数のサラリーマンはそうでしょう。非常に残念なことです。こんな小さな紙切れに自分のエッセンスが印刷されているというのに、ほとんどの人が無関心です」
「関心を向けさせるアイディアはないものでしょうか」
「あります!」
「えー、あるんですか」
「源泉徴収票をA4版カラーにして、先ほど説明した解説を刷り込むのです」
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「具体的には」
画面にカラーの源泉徴収票が映しだされる。
「住民税の欄も設けます。そして、社会保険料の欄もみっつに分割して、年金保険料、健康保険料、失業保険料の額を個別に表示して、会社負担分も表示します。会社はこれらの保険料以外にも労働災害保険料を支払っていますのでこれも表示します。そして給料に対してそれぞれの負担割合を表示します。そして裏面には一年前の各省庁の予算執行額を分かりやすく表示します」
画面では逆田が葉書大の現行の源泉徴収票と提案のA4版の源泉徴収票を持っている。
「更に年金保険料の欄には金額だけではなく、年金の支給開始時期と最初に受け取ることが出来る一年間の年金額を表示します。もちろん、今の法律に基づいた予定支給開始時期と支給予想額になりますが、最低これぐらいのことは年金保険料を支払っているサラリーマンに知らせる義務が国にあると思いませんか」
大きな源泉徴収票の横に先ほどの逆田の小さな源泉徴収票が並んだ画面に変わる。
「そういう通知がされないこと自体が問題ですね」
「失業保険についても、万が一、失業したら最低受け取ることが出来る失業保険手当の額と月数を明示すべきです」
「そうですね。国民の側でもそれぐらいのことは強く政府に要求すべきです」
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小さい方の源泉徴収票がハイライトする。
「この小さな源泉徴収票がいつから採用されたのか、財務省に取材しました」
財務省の担当者に取材する画面に替ると、その担当者が弱々しく応える。
「調べておきます」
「この様式を変えてもっと分かりやすくしようという議論は今までまったくなかったのですか」
「調べておきます」
「いつまでにご回答頂けるんでしょうか」
「調べておきます」
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