田中がシャワーを浴びているとブザーの音がする。
「田中さん。大家だ。開けてくれ」
バスタオルを腰に巻いて玄関に向かう。ドアには重そうに例のテレビを抱えた大家が立って いる。
「一日中このテレビの前に座っていたが、何も映らん。トイレに行っている間に映っているか もしれないと気が気でなかった。お陰で便秘気味だ」
田中は大家からテレビを受け取ると定位置に置く。するとまるで田中がスイッチを入れたよ うに番組が始まる。
「このテレビは田中さんの言うことしか聞かないみたいだ」
「偶然ですよ。こんなの初めてです」
「天気予報か」
「今日は昼から各地で雷を伴う豪雨で……」
「何を言ってるんだ。今日は雲ひとつない快晴だったのに」
「黙って聞こう。どうやら明日の天気だ。一日先の天気予報だ」
「下町区朝顔町のアパートに落雷して火災が発生しましたが、消防車が到着する前に豪雨です
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ぐに鎮火しました。しかし、近くを流れるヒマワリ川の氾濫でそのアパートは流されて住民は近くの朝顔小学校に避難していますが、ヒマワリ川の水嵩は増すばかりです」
「大家さん。大変なことになります」
大家は田中の声を無視して画面を食い入るように見つめ続ける。しかし、無常にも画面は変わってふたりの女性が現れる。
「それでは明日の予報を気象予報士の太田さんとともにお伝えします」
アナウンサーが気象予報士に会釈する。
「もう少し長く街の中の様子を映してくれればいいのに。あれ、これは明後日の天気予報だ」
田中は大家に視線を移すことなく頷く。その後、ふたりは言葉を交わすことなくじっと画面を見つめ続ける。天気予報が終わると女性のアナウンサーが画面中央に現れる。
「いかがでしたでしょうか。ただ今お伝えした天気予報では、気象予報士をご紹介する画面以 外すべて取材した現場の映像と天気図、それに各地の予報画面だけを放送しました」
「そう言われればそうだな。わしの声が届いたのかな」
「そうですね。女子アナや気象予報士の顔なんか天気予報に関係ないものな」
「非常に分かりやすかった」
「でも、この女子アナ、気に入ってるんです。天気予報よりあの顔ばかり見ていて次の日、傘を持っていくのを忘れてひどい目に遭ったことがありました」
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「番組の放送のあり方を見直ししたところ、たとえば天気予報ならどのようにして的確に視聴 者に伝えるのかを再検討しました」
「なるほど。少しでも長く詳細な図説で天気予報をしてもらう方が役に立つ。ちゃらちゃらと女子アナや気象予報士の顔や全身を放映してもらう必要はないな。あっ!明日は雷雨だ!心配だ。田中さん、見回りに行く。それじゃ」
「待ってください。このアパートは大丈夫なんですか!」
*
「まったく同じことが起こった」
大家が傘をたたんでドア横に立てかけてからゴム長靴を脱いで田中に近づく。
「すごい雨でしたね」
田中は濡れ鼠のような大家を迎える。
「僕も今帰って来たとこです。あの放送どおりヒマワリ川の両岸のヒマワリが冠水していまし た。大丈夫ですか」
「川に近い店子には避難するよう勧めた」
「ここは大丈夫ですか」
「分からんが、テレビはどうだ?」
「ご覧の通り何も映っていません」
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「そうか」
大家はへたへたと座りこむ。
「真っ青ですよ。大家さん、大丈夫ですか」
田中は自分の身体を拭いたぼとぼとのバスタオルを大家に手渡すと冷蔵庫からペットボトル を取り出してコップに水を注いで手渡す。田中は手にしたボトルに残った水をそのまま一気に飲み干す。
「なあ、田中さん」
田中は神妙な大家の声に促されるように座る。
「このテレビで大儲けできることは分かるが、わしはそれよりもっと大事なことを知った」
田中がじっと大家の顔を見つめる。
「明日の為替相場や競馬なんかどうでもいいことだ」
「でも、大儲けできますよ」
「大儲けしてどうする」
「うーん。大儲けしても身を持ち崩すだけなんですよね。大家さん」
「そうだ」
「地道に暮らせと死んだ両親がよく言っていました」
「いい親だ。わしはちょっとした資産家だが、もちろん親からもらった財産だが、子供たちに
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は貧乏だと常日頃言い含めている」
「そうなんですか。私の親は本当に貧乏でしたから、親から貧乏だと言われたことはありませんでした」
田中の言葉に気が軽くなったのか、大家が笑う。一緒になって田中も微笑む。
「話を戻す」
田中から笑顔が消える。
「田中さん。あなたは本当に気持ちのいい方だ」
田中がキョトンとして正座すると大家の次の言葉を待つ。
「このテレビが、たとえば大地震のニュースを流したらどうする」
「えっ」
田中は大家の言葉の意味が理解できずに首を少しだけ横に振る。
「テレビに大地震の光景や津波の映像が具体的に映しだされたら、田中さんはどうする」
「このテレビから?」
「そうだ。明日起こることがこのテレビに映しだされれば……」
「安全なところへ逃げます」
「誰にも伝えず自分だけ逃げるのか」
「だって誰も信じませんよ。『明日起こる事がテレビに映っているからみんな逃げろ』って叫
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んでも」
「一ヶ月ぐらい余裕があればなんとかなるかもしれんぞ」
「待ってください。確かにきっちり一日前とは限らない。ほんの数時間先のことが映っていたこともあった」
「自分だけが逃げるのにも事欠くことがあるかもしれんと言うことだな」
そのとき、突然端の端までフルサイズで映像が現れる。
「緊急地震速報!震度五以上の地震が発生する可能性があります。震源地が海底の場合には津波の恐れがあります。ただ今、緊急地震速報が……東北沖で地震が発生しました。震度七が……」
「震源地が海底ですと津波の恐れが……津波警報が出ました。東日本の太平洋側全域と……」
「念のため、海岸には近寄らないでください。非常に危険ですから絶対に近寄らないでください」
「先ほど午後二時三十四分ごろ、東北地方で大きな地震が……」
大家が袖をまくって腕時計を見る。
「ほぼ一日後に起こる地震だ」
「大家さん!そうじゃありません。画面右下を」
田中が指差した場所を見つめる。日付と時間が表示されている。
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「今日!一時間後か!」
「津波に注意してください。海には近寄らないで……地震の大きさを示すマグニチュードは九と推測されました。大きすぎます!大地震です……」
「大きいぞ!ここは震源地からかなり離れているし、海から遠いので津波の心配はないが、この放送どおりだとすれば、わしらは何をすべきなんだ」
「大家さんの親戚や友人に東北地方の人はいませんか」
「思い当たる人はいないが、店子の中には東北出身者がいたはずだ」
画面が突然消える。
「消えた!肝心なときに!」
田中は目を閉じるが大家は目を見開いたままだ。
「大家さん。新聞社やテレビ局にこのことを連絡しましょう」
と言いながら田中が目を閉じる。
「今のニュースを触れ回ったところでキチガイ扱いされるのが関の山だ。このニュースを放送しているテレビ局はどこなんだ!」
田中が大家の言葉に相槌を打って消えた画面を見続ける。田中の親より年配の大家の方が狼狽えて急に立ち上がる。
「なんとかしなければ」
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田中は何も応えずにゆっくりと立ち上がって、ノートパソコンを手にすると電源を入れる。大家はそんな田中を無言で見つめる。田中はテーブルにノートパソコンを置いて座るとキーボードを数回叩いたあとパッドに指を置いて操作する。
「何をしている」
大家の絞りだすような声に田中は落ちついて応える。
「このパソコン、ワンセグが見れるんです」
「あっ、バッテリーの残量がない」
それまでのゆっくりとした動作とは違って再び田中が立ち上がるとパソコンを置いていた付近で乱雑に何かを探す。電源コードを探しているのだ。小さな黒いボックスを手にするとそこから伸びたコードの先端をコンセントに差しこんで、もう一方の先端をパソコンに繋ぐ。しばらくするとパソコンの液晶モニターにテレビ画面が現れる。
「先ほどの放送が本当かどうか、これではっきりする」
「わしらにできることは確かにこれしかない。あの放送がウソだったことを祈るしかない」
「二時三十四分と言ってましたよね」
「あと四十分後か」
「何か打つ手はないものか」
「未来が分かっていても何もできない。人間って無力なもんですね」
大家は落ち着き払っている田中を見て腹立たしくなるが、すぐに納得する。
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「自然に対して人間はなんともちっぽけな存在なんだ。その無力さが証明されようとしている」
「為替相場や競馬には有効なんだがなあ」
「相手が自然の場合、これほど無力だとは」
「このアパート、本当に大丈夫ですか。マグニチュード九とか言ってましたよ」
「うーん。このアパート、古いからな。ひょっとして倒れるかも」
「本当ですか!もしそうなら地震が来るのがわかってながら、倒壊したアパートにいて死ぬなんてバカバカしい」
「なるほど。そのとおりだ。店子と大家も一緒に死んだなんて洒落にもならない」
「そうか。大家さんと一緒なら安全なんだ」
田中はニーと笑って大家を見つめる。
「あと三十分か……」
*
「来た!」
「結構揺れてますよ」
「前もって分かっていても気味が悪い」
「まだ揺れてます」
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「長いな」
ふたりの周りに異常な音が充満する。しかし、棚から落ちる物はない。最初にP波という上下に小刻みに揺れる震動があるはずなのに震源地から遠いせいか、ふたりには初めからS波という横揺れのみを感じる。しかし、人間が不安を感じるほどの揺れの割には部屋の中にある物は反応しない。くたびれた窓ガラスの音が派手に聞こえる程度で余り整理整頓されているといえないが、床に到達する物は何もない。地震速報を示すメロディーが流れる。ふたりは身を寄せてノートパソコンのモニターを見つめる。
「ただ今、東北地方で地震が発生しました。この地震による津波に警戒してください!」
言葉を交わすことなく、田中と大家はモニターを見続ける。
「津波警報が発令されました。各地の津波の予想到達時間と高さは次のとおりです」
「震度七は……」
地震の被害状況がはっきりしない。倒壊した建物に近づいて詳しく映しだされることがないからだ。一方画面端には日本列島の地図が映しだされて太平洋側に黄色い帯が点滅している。
「海岸に近づかないでください。できるだけ高い所に避難してください」
しつこいぐらいのアナウンスが何度も繰り返される。
「キチガイ扱いされようとマスコミに連絡すべきだったんでは」
大家は頷くが出た言葉は逆だった。
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「誰も信用せんよ。そしてこの地震が収まったとき、わしたちは質問攻めの取材を受けてこのワケのわからんテレビのことで厳しい追求をされるだけだ」
田中は黙って大家の話を聞く。
「田中さん。地震学者でも地震を予想して危機に備えろと言っても無視される。わしらがどれだけ訴えてもなんともならん」
「でも、予想が当たれば一気に注目されて……」
「地震学者は学者だ。わしらは学者ではなく怪しげな占い師のようなものだ」
突然、例のテレビに津波の画面が現れる。
「津波だ!とてつもない大きな津波だ!」
ふたりはモニターからテレビに視線を移す。壁のような黒い津波が港に押し寄せている。
「逃げろ!逃げろ!」
ふたりはテレビに顔を近づけて叫ぶ。
「車から降りて早く高い所へ!」
自動車は海岸線と平行している道を突っ走るだけで山に向かって走っていない。津波が次々と車に襲いかかる。
「何をしてるんだ。車なんかどうでもいい。早く高台へ」
届くはずもない声をテレビに向かって投げつける。防波堤を軽々と越えると津波が港町に突
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っこむ。漁船が、家が、車が浮いたまま画面手前の方に向かってくる。
「大家さん!これは今から十数分後の映像だ!」
大家は画面の時計と腕時計を交互に見つめる。
「誰が撮影してるんだ?」
「映画のワンシーンだと言われれば疑うことなく信じます」
「……」
その後ふたりは唸り声こそあげるが、大声をあげることはなかった。
*
「田中さん。会社を辞めてこのテレビのビデオを撮ってはどうだろうか。生活費はわしがみる」
「そうですね。会社にいてもこのテレビのことばかり気になってミスばかりしてます。毎日、上司から怒られぱなしです。最近は精神科で診察してもらえと命令されています」
「それなら、なおさら辞職した方がいいんじゃないか」
「でも……」
「このテレビはあんたがいなければ何も映らない。そうだろ」
「女性にモテないのに、変なテレビに気に入られるなんて」
「決まりだ。明日、辞表を出すんだ」
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「でも、その途端、このテレビが映らなくなったら、僕はどうなるんですか」
「うーん」と言ったあと大家は黙ってしまう。
「精神科には行きませんが、会社には行きます」
「いずれ首になるぞ」
「うーん」と今度は田中が黙ってしまう。
「どうだ。証文でも書くから、会社を辞めれば」
「証文?」
「『田中さんの一生の面倒をみます』ってな証文だ」
「でも大家さんが死んだら、どうなるんですか」
意外な田中の鋭い質問に大家は腕を組む。しばらくして大家が大きく頷く。
「こういうのはどうだ。信託するんだ」
「なんですか、その信託というのは」
「銀行の資産家向けの説明会で聞いた……。詳しいことは覚えていないが、要するにわしが田中さんのために預金をしておいてその利息を死ぬまで田中さんが受け取るようにするんだ」
「いま、金利って、滅茶苦茶低いですよ」
田中の指摘に大家が目を閉じる。
「銀行の営業担当が明日来るから聞いてみる」
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「なんとかなるのなら、大家さんの言うとおりにします。本当は今の仕事、イヤなんです。毎月、月末になると目標達成ができなくてみんなの前で叱責されるんです」
「サラリーマンは辛いな」
「大家さんはいいですね」
「そんなことはない。家賃の滞納や雨漏りの苦情や、とにかく結構苦労している」
「家賃のことは……」
「わかっている。あんたは免除だ。あれはウソではない」
「家賃の免除も証文に書いてくださいね」
大家はここで田中に対する評価のレベルを数段階引き上げる。
*
むずかしそうな証文にハンコを押すと田中と大家が握手する。
「わし、隣の部屋に住むことにする」
「えー。山本さんが住んでいた部屋にですか。奥さんが反対しませんか?」
「わしは独身だ。妻は随分前に亡くなった」
大家の表情が急に暗くなる。
「そうなんですか。お気の毒に。知りませんでした」
「それより辞表を提出したのか」
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「明日、出します。上司は大喜びするでしょう」
「退職金は?」
「すこしは出るようです。でも前借りがあるんでほとんどありません」
「そうか。それでは今後のことを話し合おう」
「今後のことって?」
「あのテレビに何か映ったときの連絡方法だ」
「連絡方法?」
「隣の部屋に行くから、しばらくしたら壁を叩いてくれ。この辺がいいだろう」
大家は壁を指すと叩く真似をする。そして部屋を出る。田中は大家が示した当たりの壁を二、三回叩くとすぐさま大家が戻ってくる。
「よく聞こえる」
「そんなに薄い壁なんですか」
「まあ、気にするな。それより、わしが部屋にいないときにどうするかだ」
「携帯で連絡するしかないですね」
「そうだ。お互い専用の携帯をもつことにしよう。風呂に入っていても大丈夫なように防水携帯がいいな。山田電気へ行くぞ。わしが負担するから安心しろ」
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