【時】永久0012年6月(前章より約200年前・第一章の摩周湖から7か月後)
【空】北海道(民宿)
【人】瞬示 真美 老婆 ケンタ
***
【集まれ】
【集まるのよ】
【慌てずに】
【ゆっくりと】
口で言っているのではなく、耳で聞いているのでもない。意識が言って、意識が聞いている。意識がこだまするように同じ言葉を何度も発信し、何度も受信する。まるで意識が無数にあるようにお互い呼びあう。もう何日も何か月も呼びあっている。
【違う】
【いや、そうだ】
無数の意思が試行錯誤する。意思の数がまとめられて何百となるまでかなりの時間を要した。
[64]
何百となると何十になるまでは一日も必要としなかった。そして、一瞬のうちに一組の意思になった。
その一組の意思が分割されると、瞬示と真美が元の身体を取り戻す。
【瞬ちゃん】
分割されたひとつの意思が瞬示を呼ぶと、もうひとつの意思が真美に叫ぶ。
【おぼれるぞ!】
真美の手を引いて瞬示が水面から顔を出す。ふたりがいた付近の水は透明な黄色だ。それに気付かずにプーと口から水を吐きだして岸に這い上がる。
明るい、青い、暖かい。
草のニオイ、花の香り、潮の味。
水の音、波の響き。
海辺に近い春の午前の雰囲気がふたりを包む。見渡すと目の前に小高い丘が横たわっている。ここからは見えないがその向こう側は雄大な海だ。
相変わらず、ふたりは紺色のジーンズの上下を着ているが、水に濡れたせいか鮮やかに見える。
「川の中にいたの?」
頭の毛から雫をたらしながら瞬示がうなずく。
[65]
「ここはどこ?」
真美は無駄とわかっていながら胸のポケットからハンカチを取り出す。つられて瞬示もすべてのポケットをまさぐるがハンカチは見あたらず、スマホのストラップに手がかかる。ポケットから取り出して電源ボタンを何度か押す。
「やっぱり電源が入らない」
摩周湖のときと同じだ。
「水につかったから?」
「いや、濡れているような感じがしない。あっ!」
真美も自分の服をさわりながら驚く。
「乾いているわ。服もハンカチも!」
ふたりは慌てて身体のあちこちをさわる。さっきまでずぶぬれだったのに、完全に乾いている。
「また、同じことが……」
瞬示はスマホとの格闘を中止して、ほかのポケットをまさぐると小銭入れを見つける。
「ハンカチ、持ってないの?」
「……」
「不潔ね」
[66]
真美がゲラゲラと笑う。そして口からでなく瞬示の意識の中に直接話しかける。
【わたしたち、いったい】
瞬示も同じように真美の意識の中に言葉を送る。
【しゃべらなくても意思が通じる】
ふたりはもう何度もこのような形で会話をしてきた。今、改めてお互いの意識が共有されていることを認識する。
摩周湖でのこと、そして見知らぬ場所で何か戦争のようなものに巻き込まれたこと。ふたりが経験したことすべてが一致していた。夢ではない。ただし、証人はいないし証拠もない。
「同じ夢を見ている」
真美が瞬示を無視して飛び跳ねる。
「何してるんだ?」
「飛べない!」
「ハア?」
「わたし、アクロバットみたいに飛び上がったのよ」
「そうだ!」
「光線は?」
「どうやって発射したんだっけ」
[67]
今度は瞬示が真美に向かって手刀を切る。
「それってウルトラマンのマネ?」
真美が身体を左右に振って叫ぶ。
「残念でした。全部外れたわ」
瞬示が憮然として真美をにらむ。そして手刀の構えを崩すとうつむく。
「とっさのときにしかできないのか」
【だけど、お互いの心に直接話せるわ】
ほらねっという表情を浮かべながら真美が微笑む。
【テレパシーだけはできる】
ふたりは手をつなぐと民家に向かって歩きだす。
「あの戦闘は何だったんだろう」
「まるで女と男が戦っているみたいだったわ」
つがいのモンシロチョウがふたりにまとわりつく。
「春!」
「摩周湖で出会ったのは秋よ!」
ふたりは会話を停止して記憶をたどる。
摩周湖に吸いこまれたあとは、暗くて岩ばかりの場所で戦闘に巻き込まれた以外に記憶がな
[68]
い。その記憶も何か夢のような淡い記憶でしかない。
「半年間、ずーっと水の中にいたのかしら?」
瞬示がまさかというような表情をする。
「お母さんやお父さん、心配しているだろうな」
真美が急に立ち止まって泣きだす。瞬示もそれにつられて急に涙を浮かべるが、真美に気付かれないように手の甲で涙をぬぐうと真美の肩に静かに手を置く。
「行こうか」
「どこへ」
「どこって、あそこしかないだろ」
民家に続くお花畑のゆるやかな登り坂をふたりは歩いていく。
「見て見て、これキレイー」
さっきまで泣いていた真美が機嫌良くハミングしながら、気に入った花を引きぬいては束ねる。
「この花、カワイイ」
真美があどけない声をあげて目をクルッと半回転させる。
「見るだけにして摘みとらなくてもいいのに」
「だってカワイイもん」
[69]
真美の変わり身の速さに瞬示が苦笑する。しかし、瞬示の脳裏にあるのはまず電話を借りることだった。花に飽きたのか、真美が瞬示を追い越して坂を登りきる。
「あっ!」
真美が束ねた花を落とす。
「瞬ちゃん……」
丘の下からでは見えなかったが、二階建ての民家と真っ赤な四輪駆動車が見える。
「ここは花子の実家よ!」
「えっ」
瞬示の記憶がよみがえる。その車は真美が摩周湖の駐車場の売店にぶつけたあの赤い車だ。
「花子、無事だったんだ!」
真美が飛び上がって喜ぶと赤い車に向かって駆けだす。
「まさか」
慌てて瞬示が真美を追いかける。
「偶然じゃ?」
ふたりは赤い車の前で立ち止まる。
「わたし、ナンバー覚えてるもん」
「えっ!じゃ助かったんだ!信じられない」
[70]
「でも、ナンバープレートの形……」
「違うなあ」
ふたりが見慣れているナンバープレートより細長い。
「番号は同じなのに……」
「ひょっとして、一太郎も助かったのかも!」
「いっしょにいるかもしれないわ」
そのとき民家の玄関が音もなく開く。青いセーターにグレーのスラックスをはいた背の高い老婆が出てくるとふたりに気付く。その表情は驚きに満ちている。
【花子のお母さんじゃない】
老婆が背筋をしゃんと伸ばしてから枯れた声をあげる。
「旅の方か?お泊まりか?」
民家の壁には「民宿厚岸」と書いてある。
【厚岸?】
【釧路の少し西の方にある自然公園のあるところ】
老婆が周囲を見渡す。そのとき、オートバイのエンジン音が聞こえてくる。
「こんなときに」
老婆が独り言のような声を出す。
[71]
ふたりは改めてまわりを眺める。空は高く、蛇行する川と数え切れないほどの幅の狭いクリークが自由奔放に縦横無尽に流れる湿原が民宿の間際まで広がっている。動くものといえば雲だけで近くに山はない。民宿がある丘は徐々に細くなって、その先端は海に向かって沈む。
けたたましいエンジン音がする方向から大きな段ボール箱を積んだ黒いオートバイが向かってくる。
「まあ、お入り」
老婆はふたりを急かすように勧める。
【変だわ】
真美が信号を送る。
【なぜ?】
【あのときの予定ではここに泊めてもらうことになっていたんだけど……】
【あのときって?】
【摩周湖で出会った日】
【どういう予定?】
【空港に迎えに来てもらって摩周湖を見てからこの民宿に泊まる予定だったの】
真美はこの民宿の状況を確認してから瞬示に報告しようと思って信号を止める。瞬示はそんな真美の意識を感じとりながら、若い男が運転するオートバイを見つめる。
[72]
オートバイは玄関を通りすぎて建物の奥で止まる。エンジンを切ると黒いジャージに身を包んだ青年に限りなく近い少年がオートバイから降りる。
「とう婆ちゃん、お客さんか」
少年は瞬示と真美に頭を軽く下げて荷台から真っ黒なゴムロープでしっかりと固定された段ボール箱やトロ箱を下ろす。
「かあ婆さん、ケンタが市場から戻ってきたぞー」
とう婆さんが家の中に向かって叫ぶ。そのケンタは黙々とネギがはみ出した段ボール箱を持って勝手口に向かう。
【花子に弟はいないわ】
真美が怪訝そうな表情をしながら信号を流す。老婆がそんな真美の顔をしげしげと見つめる。瞬示は真美の信号を無視しておもむろに切りだす。
「ちょっと電話をお借りしたいんですが」
「電話?どうぞどうぞ」
とう婆さんはふたりを玄関に招く。スニーカーを脱いで板の間にあがると、とう婆さんはすぐ右側の部屋に案内する。そこはちょっとした事務所風の部屋だ。古い灰色のスチール製の机の上にこれもまた古いダイアル式の黒い電話機が置いてある。
「どうぞ」
[73]
「ワケは後でお話しします」
「いい、いい」
「ありがとうございます」
とう婆さんが部屋から出ていくと奥に向かって呼びかける。
「かあ婆さん」
「なんじゃ」
***
食い入るように観察していた真美が最後にダイアル式の古い黒い電話機を見つめる。
【何もかも、前に来たときと同じなのに】
瞬示が受話器を取って自宅の電話番号をぎこちなくダイアルする。
「もしもし、瞬示です」
「ハア?」
電話の向こうの声は瞬示の予想と大きく異なる。
「すいません。間違えました」
焦って番号を間違えたのか?瞬示は受話器をいったん電話機の上に置いてからゆっくりと慎重にダイアルする。
[74]
「はい」
すぐにつながる。
「違います」
先ほどと同じ声だ。瞬示が相手に番号を告げる。
「そうですが、違います」
プツンと切れるとツーツーという音だけが残る。
首を傾げながら受話器を置く。説明を聞かなくても瞬示の疑問は真美に共有される。今度は真美が受話器を取るとゆっくりとダイアルする。結果は同じだ。つながるが自分の家ではないのだ。ふたりは顔を見合わせる。
「いったい、どうなってるんだ」
「怖い」
真美の目に涙が浮かぶ。
「まあ、お茶でも」
卵色のセーターに茶色のスラックス姿のやはり背が高いかあ婆さんが、湯飲みがふたつ載ったお盆を持ってふたりに近づく。
「電話はつながったかな」
ふたりは返事をしない。
[75]
「汚いソファじゃが」
かあ婆さんは小さなテーブルにお盆を置いて、ソファを手でぬぐってからふたりに勧める。
「ありがとうございます」
真美がかあ婆さんに頭を下げるが、世間話をするほどの余裕はない。
「摩周湖で何かあったんですか?」
瞬示は一番聞きたいことを尋ねてみる。
「あれ、あんた達も摩周クレーター探検旅行に来なさったんか」
「摩周クレーター探検旅行?」
ふたりが同時に声をあげる。
「去年の秋、摩周湖が突然、爆発したの、知っとるじゃろ」
「ハア?」
瞬示が力のない抜けた返事をする。
「摩周湖があったところに大穴があいて」
と、かあ婆さんが言いかけたところにケンタが入ってくる。
「かあ婆ちゃん、準備ができた」
「わかったよ。ケンタ、おまえ、暇だろ。お客さんの相手を」
背が高いかあ婆さんはケンタの肩をポンと叩いて部屋から出る。
[76]
「お客さん、車は?」
待ちかねたようにケンタが口を開く。
「あの……歩いて」
瞬示が何とか言葉にする。
「えっ?歩いて!」
ケンタがひっくり返るほど驚く。
「エアカーでも町まで三十分はかかるのに」
【エアカー?】
瞬示が首をひねる。会話が途切れたところで真美がケンタに質問する。
「お婆さんとケンタさんで民宿してるの?」
「はい」
【違う!】
真美は強い信号を発する。
【ここは花子の両親が経営する民宿で、花子はひとりっ子なのよ】
【間違いないのか?】
【わたし、えーと今はいつなのかしら。とにかくここへ来たことあるもん】
瞬示が真美を見つめながら考えこむ。考えはまとまることなく想像の信号を発する。
[77]
【もしかしたら、あの摩周湖でのふしぎな出来事の前と後で世界が違うのかもしれない】
【えー?何を言ってるの!】
無言なのにまるで会話をするようにふたりの表情がめまぐるしく変化するのをケンタはふしぎそうに見つめる。
「お客さん達、どちらから来られたんですか?」
瞬示はどう返事したらいいのか迷って、でまかせの言葉をはく。
「摩周湖から」
「摩周湖!」
ケンタが全身で驚く。
「今、摩周湖がどうなっているか、教えてください」
――摩周湖から来たというのに摩周湖のことを聞きたいとは?
ケンタが首を傾げる。
「今の摩周湖」
と、瞬示が繰り返す。
「今の?」
ケンタはしきりに首を振りながら唸る。
「摩周湖で起こった大事件を知らないのですか?」
[78]
「大事件?」
「隕石が落ちたように大きく陥没して、摩周湖を中心とした巨大なクレーターができたんだ」
「隕石が落ちたのならこの辺も無事ではないんじゃ?」
瞬示が反論する。
「隕石でないことだけは確からしい」
ケンタは真美の後ろの棚から背表紙に「摩周クレーター」と書かれたスクラップブックを取り出す。
「お客さん用にオレが作ったんだ」
ケンタが胸を張ってスクラップブックを手にすると、空から撮影された摩周湖付近の写真を掲載した新聞の切り抜きが貼りつけられたページを開ける。新聞だけではなく週刊誌からの切り抜きもある。次のページには摩周湖の痕跡すらないクレーターの写真が貼りつけられている。大きさはわからないが、底が浅い薄っぺらな皿のように陥没した地形を斜めから撮影した写真がある。真上から撮った写真もある。恐らく人工衛星から撮影したものだろう。クレーターは摩周湖が以前あったところを中心として半径約三十キロメートルの見事な円形をしている。中心部に水をたたえて北側はオホーツク海に迫る巨大な窪みだ。クレーターの底が浅いように見
えるのは直径が大きすぎるからだ。水のないところはまるで鏡のように輝いている。
写真だけではなく記事もスクラップされている。ふたりは混乱しながらも熱心に記事を読み
[79]
続ける。
そんなふたりをケンタはじっと見つめる。
摩周湖のみならず屈斜路湖も消滅している。辛うじて阿寒湖は巨大な窪みにのみこまれずに存在している。その阿寒湖の水位がどんどん低下しているという記事がある。付近の川の流れも変わり屈斜路湖の湖水が流れこんだので、クレーターの中央部はかなりの量の水をたたえているという。何らかの原因で陥没したとするならば、なぜこのようなきれいな形になったのかふしぎだった。
何人かの人間が摩周クレーターのふちから滑空して死んだという。人為的に手が加えられたとするのならば宇宙人の仕業なのだろうかという記事もある。
自分たちはあの摩周湖に真っ逆さまに落ちていった。それとこれが関係あるのだろうか。気が付けばふたりは川の中にいた。瞬示と真美は信号を交換することなく、疑問と驚きを共有する。
ケンタは明らかに動揺するふたりに我慢できなくなって尋ねる。
「摩周湖からどうやってここまで来たのですか?」
「それがよくわからないんだ」
「なぜ!」
ケンタが叫ぶ。
[80]
「覚えていないの」
真美が弱々しく応える。ケンタが続けて質問しようとしたとき、とう婆さんの声がケンタの後ろからする。
「昼ご飯の用意ができたよ」
「実は」
真美が頭を下げて告白する。
「わたしたち、お金の持ちあわせがないのです」
ケンタがびっくりする。
「いいんだよ」
とう婆さんがすべて承知の上という感じで答える。車で乗りつけていないことがすべてなのだ。うれしそうにケンタがとう婆さんにうなずく。
「今夜は泊まっていくんだろ」
「当てはないけど、宿代が」
ケンタはとう婆さんを横目で見ると敏感に反応する。
「遠慮せずに、泊まっていきなよ」
このケンタの声には瞬示と真美の謎のような態度に対する強い興味が含まれていた。
「ありがとう」
[81]
瞬示が笑みを浮かべると真美が頭を下げる。そして頭を上げると、気を許さずにとう婆さんとケンタに向かってごく自然に会釈する。ケンタは手招きするように手のひらを上に向ける。
「俺が食堂に案内する」
ケンタのお腹がグウーとなる。そんなケンタにふたりは気持ちが軽くなって腰を上げて足を踏みだす。
【奥に食堂があるの】
真美は何か変わったところがないかとキョロキョロしながら、ケンタについて廊下を進む。
とう婆さんはふたりがまったく手をつけていない湯飲みを片づける。
***
民宿らしい簡素な食堂だ。木製の四角いテーブルがふたつある。つめて腰かければ、六人は座る。腰を落とすとギイギイと音をたてる丸い木製の椅子がふたりを支える。
ケンタが大き目のお椀に熱々のご飯をよそい始める。手伝おうとして真美が立ち上がるが、ケンタはシャモジを持った手で制する。
「お客さんだ。座っててくれ」
「わたしたち、お客さんじゃないわ。手伝わせて」
「特別なお客さんだ」
[82]
ケンタがそう言うとご飯をよそったお椀を盆に置く。
「ごめんなさい」
真美が恐縮して頭を下げてから腰をかがめて瞬示に信号を送る。
【何もかもが前と同じなのに】
真美は座り直して何度もまわりをうかがう。
【人間だけが違う!それ以外は花子の民宿そのものなのに。花子はどこにいるの?】
真美は悲しみを信号にする。そのとき、かあ婆さんがケンタに手招きする。
「これがお客さん用じゃ」
ケンタはかあ婆さんの指示どおり湯気が出る焼きたての魚、芋のサラダ、みそ汁、漬物を食卓に運ぶ。豪華ではないが暖かみにあふれている。
何日ぶり?何か月ぶり?急にふたりのお腹が鳴りだす。真美がペロッと舌を出す。どうも鳴りだしたら止まらないという感じだ。ごく普通の人間の反応だ。
「いただきまーす」
真美はうれしそうに手を合わせるとみそ汁がはいったお椀を手にする。
「おいしい!」
真美がみそ汁に舌づつみする。ケンタがリモコンを取って隅にある棚の上のテレビをつける。瞬示も割り箸を持つ。「パチン」という箸を割る音が意外と大きく響くとテレビから音声が流
[83]
れる。
[84]