【時】永久0012年6月(前章と同じ)
【空】北海道(民宿)
【人】瞬示 真美 老婆 ケンタ
***
「昼のニュースの時間ですが、朝のニュースでもお伝えしたように番組を変更して世界最大の総合医療法人徳川会の徳川会長の緊急記者会見を中継します」
アナウンサーの声とともにドーム球場の中央で記者会見に臨む男の姿が映しだされる。
「開発着手の発表から十年以上の歳月がたちましたが、ついに不老不死の手術をあらゆる人間に施すことが可能となりました。この技術が日本から生まれたことを誇りに思います。年金や健康保険問題もすべて解決されるでしょう」
高級なグレーのスーツに身を包んだ若い徳川会長が世界中から集まった数千人を超える記者の前で堂々としゃべる。
ケンタはテレビに近づいて画面を注視する。瞬示も割った箸を持ったまま興味深く見つめる。真美も唇にまとわりつくみそ汁のワカメをズルズルと吸いこみながら見つめる。
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「社長にしては若いなあ」
瞬示は質問するつもりではなく、素朴な感想を吐露する。
「生命永遠保持手術を受けて若返ったんだ」
ケンタがテレビを見つめたまま応える。
「生命永遠保持手術?」
瞬示が箸を置く。
「医療法人徳川会が生命永遠保持手術を完成させたんだ」
ケンタが瞬示の質問に迷惑そうな表情をするが、ケンタの背中越しにテレビを見ている瞬示にはわからない。
画面には徳川会長の自信に満ちあふれた顔がアップで映される。
「原理は簡単です。老化原因となる遺伝子の情報を不活性化させるのです。この生命永遠保持手術は人間のみに施します。もちろん、あらゆる生命に生命永遠保持手術を施すことは可能ですが、人間以外の生命にはあまり効果がありません」
明らかにこの世界は瞬示と真美にとって別世界だとはっきり自覚させるだけの報道が目の前で展開される。
「私どもは、まず単細胞動物から実験を開始して高等動物へと生命永遠保持手術の実験を進めましたが、ふしぎなことに高等動物になればなるほど生命永遠保持技術の効果があがることに
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気付きました。つまりこの生命永遠保持手術は人間に一番効果があります。理由は人間にはほかの動物と違って意識があるということです。『生きたい』『長生きしたい』という希望を持っているのです」
記者たちは、ここまでの話については周知しているので静かに徳川の話を聞いている。つまり、ここまでは肝心な話に入る前のセレモニーにすぎない。
「生命永遠保持手術の開発は十年前に着手したのですが、ここに至るまでの最大の難関はなかなか臨床実験の許可がおりなかったことでした。私は七十歳ですが……」
「えっー」
瞬示と真美が同時に叫ぶ。どう見ても徳川は二十歳代に見える。
「実は自らを実験台としました。ご存知のとおり世界中から非難を受けましたがついに成功しました。もちろん私どもの社員も全員がこの手術を受けています。失敗例はなく手術後、何らの問題も生じていません。また一部の方にもすでにこの手術を受けていただいた」
恐らく大富豪や政治家が金を積んで手術を受けたのだろうということは、住んでいる世界が異なっていても誰にでも簡単に推測できる話だ。しかし、既知のことなのだろうか、ふしぎなことに記者からのどよめきはない。
「この生命永遠保持手術の実用化には高いコストがかかりました。しかし、例えば高齢化社会に突入した日本の場合、年金や健康保険料の負担を限りなくゼロにできますから、日本人全員
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にこの生命永遠保持手術を低コストで施すことは簡単です。もちろん開発途上国でも……」
ほとんどの記者が黙ってうつむいてメモを取っている。徳川が一呼吸置く。
「私どもは生命永遠保持手術の開発に着手したときから、今までの人生観、価値観がどのように変化するのかも検討してきました」
瞬示と真美は食事を取ることも、お互い信号を送りあうことさえ忘れて、固唾を飲んでまばたきもせずにテレビを見つめる。ケンタも身じろぎもせずに見続ける。
「公表をしないことを条件に各国政府はもちろんのこと、国連にも検討の依頼と私どもの試案を提供しました。単なる不老不死の技術ではありません。不治の病や身体的な障害などにも対処ができます。私どもは人類の永遠の発展繁栄を願う者であり、そのためにこの生命永遠保持手術を提供します。いずれ地球連邦政府が設立されればすべての情報を引き渡すつもりです」
ここで初めて記者の間から大きなどよめきと歓声に似た声がうねりのよう会場を埋めつくす。
「私どもは豊臣自動車工業が起こした過ちを繰り返すつもりはありません。言うまでもなく豊臣自動車工業は重力制御装置を開発し、それまでの自動車はもちろん、あらゆる乗り物の概念を打ち破ったうえ、その技術を応用してコンピュータや発電所など様々な分野で大革命を起こしました。言葉は少々乱暴かもしれませんが、金持ちだけが月や火星に簡単に旅行ができるようになりました」
徳川が大きく両手を広げる。
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「私どもは違います。手術費の一部はご負担願うとしてもすべての人に平等、公平にこの生命永遠保持手術を提供いたします」
すべての記者から割れんばかりの大拍手が起こる。徳川は満面の笑みをたたえて広げていた両手を下げると、拍手が鳴りやむのを待つ。
「我々人類は充電の必要がない電池を手に入れたのです」
再び大きな拍手に徳川が包まれる。
「マスコミなんて身勝手だ。この間まで徳川会のことをぼろくそに批判していたのに」
ケンタは拍手で埋まる会場の映像を見ながら怒りをあらわにする。画面では徳川が記者を制して話を続ける。
「一世紀以上にも及ぶ平和な時代が続きました。その間平均寿命も延びましたが、一方では結婚率が下がり出生率も下がりました。そして不幸なことですが子供を殺す親が激増しました。その逆の事件も激増しています。男女間の緊張度も高まっています。幸いなことに国家間の争いは人類の英知を傾けることにより回避されましたが、反対に単なる感情のもつれを原因とする個人間レベルでの争いは増えています。このままでは国家間戦争のような大量の殺戮はなくなっても個人間の殺人の激増で、今すぐにではないとしても、いずれ人類は確実に滅びるでしょう」
徳川の声が高揚する。
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「確かにこの生命永遠保持手術は倫理上の大きな問題を抱えております。しかし、それ以上に今申し上げましたようにすでに人類は大きな倫理上の問題を抱えております」
瞬示と真美はあまりにも想像を超えた映像に目眩を覚える。
「さあさあ、おふたりさん、食事を」
とう婆さんがケンタからリモコンを取りあげる。
「ビデオに撮っておくよ」
そう言って、とう婆さんはいきなりテレビを切る。ケンタが不満そうな視線をとう婆さんに向ける。
瞬示はとう婆さんにテレビをつけてもらおうと腰を浮かすが、破格のもてなしを無にすることになるかもしれないと腰を沈めて真美に強い信号を送る。
【ぼくらの世界とはまったく違う!】
真美が我に返って信号を返す。
【生命永遠保持手術だなんて!】
ケンタはしぶしぶ自分の食べ物を取りに炊事場に入る。かあ婆さんが黙って隣のテーブルに置かれた新聞や雑誌を片づける。瞬示はかあ婆さんならひょっとしてテレビの電源を入れてもらえるかもしれないと隣のテーブルに近づく。何げなしにかあ婆さんが片づける新聞の大きな見出しに思わず大きな声をあげる。
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「遷都!大坂から江戸へ」
真美が芋サラダを口にする。
【マミ!あれ】
かあ婆さんから瞬示が新聞を乱暴に取りあげる。かあ婆さんが驚いて瞬示をにらむが、瞬示はお構いなしに新聞の一面を真美に向ける。
「えっ」
真美は芋をのどにつめて目を白黒させる。
「これ!」
瞬示が新聞を持って席に戻る。
「大坂から?江戸?」
真美がやっとの思いで芋をのみこんで涙を流す。
確かに都が移るというのは大変なことだが、口にしたものをのどにつめるほどのことでもないだろうと、ケンタは自分の食べ物を載せたお盆を持ったまま真美を見つめる。一方、瞬示は興奮しながら記事を読みあげる。
「明智光秀から約四百有余年続いた大坂から首都機能を移転」
【明智光秀!】
もう食事どころではない。瞬示は真美にも読みやすいようにと自分の前の食べ物をテーブル
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の端に寄せて新聞を広げる。
「アメリカの大統領は女性よ!」
真美が叫ぶ。ふたりの表情に困惑の色が広がる。
「ほかにも新聞ありますか?」
瞬示の声に、今度はケンタとふたりの老婆が困惑する。
「週刊誌も!」
真美もケンタに要求する。
ふたりの目がピンクに輝く。通常では考えられない速さで活字を追う。新聞を読む瞬示の手が忙しそうにページをめくる。真美も負けていない。週刊誌を持つ手がぱらぱらとページをめくるとほかの週刊誌を手に取る。瞬示は真美が読み終えた週刊誌を読み出す。
【やっぱり、ぼくらは違う世界にいるんだ!】
【わたしたちの世界は?】
【いったい……】
しばらくの間、無信号となる。呆気にとられたケンタと老婆は、ただただ、ふたりを黙って見つめる。そのとき、急に大きな音をたてて真美が床にくずれおちる。
「マミ!」
瞬示は読みかけの週刊誌をばったと床に落とすと、すぐさま真美の首に手を回して起こす。
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自分の食べ物を横のテーブルに置くとケンタが真美に近づく。
「こっちへ」
ケンタが瞬示に手招きする。瞬示は真美を抱きあげるとケンタのあとについていく。ケンタが先ほどの事務室のドアを開けると、瞬示は真美をソファに寝かせる。
【マミ、マミ】
瞬示が信号を送り続ける。やっとソファの真美から弱々しい信号が返ってくる。
【大丈夫】
「すぐに二階の部屋に布団を敷くから、それまでここで」
ケンタはドアを開けたまま部屋を出ると階段を二段飛びで上がっていく。
瞬示が真美の上着を脱がせる。
「どうした?大丈夫か?」
かあ婆さんが濡れたタオルと水の入ったコップを持ってくる。瞬示はかあ婆さんから受けとったタオルを何げなく絞り直そうとするが、そのタオルは老婆が絞ったものとは思えないほど固く絞られていた。そんなことをふしぎに思う余裕は今の瞬示にはなく、黒い長袖のシャツ姿になった真美の顔をなぜるようにして拭く。
「ふたりだけにしていただけませんか」
瞬示もどこでもいいから横になりたい心境だ。黙ったままかあ婆さんが静かにドアを閉める。
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瞬示は黒い電話機を見つめながら、独り言のような信号を真美に向ける。
【違う世界にいるのなら、電話もつながらないはずだ】
顔面蒼白の真美は黙ったままだ。
【マミ、そう思わないか?】
過去をすべて消されたような、いや、自分たちの過去ではなく、関わったすべてのことが目の前から消えている。
真美からの信号はない。そのとき、ドアの外でケンタの声がする。
「布団の用意ができた」
「ふたりだけにして欲しいとさ」
「えー」
かあ婆さんとケンタの声がしたあとドアの外も沈黙に包まれる。
「く、苦しい」
やっと真美が弱々しい肉声を発する。ここで瞬示は、真美の異変の原因が今いるこの世界が自分たちの世界とはまったく異なる世界だと知って受けたショックではないと確信する。どうやら他に原因があるような気がしてならない。
【マミ、大丈夫か?】
真美が再び肉声を上げる。
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「はきそう」
咳こみながら身体をピンクに輝かせると全身から黒い湯気のようなものが吹きだす。瞬示が真美を少し起こして背中をさする。
【しゃべるな。信号を使うんだ】
返事がない。微動だりしない。瞬示が真美の身体から吹きだしたものを手ですくってみる。
【これは?】
瞬示の手に黒いザラザラとしたものが付着する。目をこらして指先を見る。
【黒い湯気?】
真美の手を握る。熱い!今度は額に手をやる。もっと熱い!やはり黒いザラザラしたものが指先に付着する。手にしたタオルで真美の額をなぜる。そのタオルが薄黒くなる。
「うう」
真美がうめくような声を出す。顔色は黒くないのに拭くとタオルに黒い砂のようなものが付着する。真美はまだピンクに輝いたままだが、湯気が徐々に消える。
ドアの外ではケンタがまるでビデオテープの繰り返し映像のように、幾度も現れてはそのまま食堂へ向かう。今ドアを開けるとあのふたりは消えるのでは、というような気配がケンタを包む。やりきれないのか、ケンタの声が流れる。
「とう婆さん、オレ、車洗ってくる」
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瞬示はただオロオロするだけで何もできない自分に腹立たしい思いを抱きながら真美を見つめる。しばらくすると真美の眉間から苦痛に満ちた深いシワが消えて、呼吸も規則正しく安らかさを取り戻す。再び真美の額に手をやる。先ほどのように熱くはない。それにザラザラとした感触も消えていた。
瞬示はいい方向に向かっていると自分自身を安心させる。気をまぎらわせようと立ち上がってスクラップブックを数冊棚から取り出す。摩周クレーター以外の記事を探す。
「タイムマシンも夢ではない!豊臣自動車工業発表」
瞬示はケンタが科学好きな少年だと気付く。
「総合医療法人徳川会、豊臣自動車工業の株を大量に取得」
「生命永遠保持手術は十年どころかそれ以前から行われていた!」
「闇で生命永遠保持手術希望者を募集!無料で手術を……」
「今や世界最大の宗教団体に変身した総合医療法人徳川会……」
「行方不明者が十年ほど前から多発しているが、徳川会が拉致し生命永遠保持手術の実験台に……」
スクープらしい記事の切り抜きが並んでいる。
「総合医療法人徳川会、豊臣自動車工業を完全子会社化」
瞬示は真美のことを忘れてスクラップブックのページを次々とめくる。
[97]
ケンタが言っていたように総合医療法人徳川会に対して厳しい記事が多い。しかし、生命永遠保持手術の内容が明らかになると状況が変化する。一部の富豪や政治家が手術を希望しはじめたのだ。徳川会は巨額の資金を集めるとともに生命永遠保持手術を合法化する法律を政治家に制定させる。
徳川会を国連の機能を強化して新たに設立される地球連邦政府に引き渡すという徳川の声明に対して、瞬示は徳川が地球連邦政府を手中に収めようと考えていると確信する。
そのうち、人類の夢である不老不死の手術にほとんどの人間が賛同する。マスコミの姿勢も一八〇度変更されて徳川会をたたえる記事が多くなり、なかには徳川会長を神格化する記事まで現れる。徳川会は世界中にその勢力を広めて巨大化する。そしてマスコミは自らの役割を放棄してしまう。
瞬示はフーと息を吐きだし、今いる世界が自分たちの世界ではないことを素直に受けいれる。
【タイムスリップしたんだろうか】
瞬示は以前見たことのあるSF映画を思い出す。
【大坂から江戸へか。ぼくらの世界より四百年ほど遅れて徳川という男に支配されている】
瞬示はスクラップブックを閉じると目も閉じる。
どれほどの時間が流れたのだろうか。
【瞬ちゃん】
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瞬示がスクラップブックをヒザから落とす。
【マミ!】
【瞬ちゃん】
【気分は?いったいどうしたんだ】
【瞬ちゃんは何ともないの?】
【別に】
【何も食べてないの?】
食べる間もなく、瞬示はテレビにそして新聞に気を奪われた。
【わたし、みそ汁と芋を食べた】
【それで】
【おかしいのよ。雑誌を読んでいるときから気分が悪くなって……】
いつの間にか真美の身体からはピンクの輝きが消えている。
【もう大丈夫】
真美が上半身を起こす。
【ここは危険だわ】
【どういうこと?】
【あのふたりのお婆さん】
[99]
【え!】
【女のカン】
真美が暗い部屋の中で意味のない苦笑いをする。
「もう大丈夫よ」
「ほんとに?」
真美は立ち上がるとテーブルのコップに気が付く。
「のどが渇いた」
コップを持つと一気に飲みほす。
***
【地名はそんなに変わっていない】
【大阪の字が違う。大坂よ】
【東京は江戸】
【人の名前は知らないものが多いわ】
【日本の首相もアメリカの大統領も全然違う】
【芸能人なんかもまったく知らない名前ばかりだわ】
ふたりが新聞や週刊誌で見たものは、ふたりがいた世界とはまったく違う。広告のページに
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は、ふたりにとってしゃれたデザイン、奇抜なデザインの商品が数多く掲載されていたが、印象としてはそのなかでも自動車がまったく違っていた。タイヤがない!地面から浮いて走っているかのような写真やメーカーの広告にふたりは一番驚かされた。
瞬示はケンタが「エアカー」と言っていたことを思い出す。しかし、この民宿にある赤い車はふたりの世界にあるものとまったく同じだ。
【なぜ、ここの車にはタイヤがあるんだ?】
車だけじゃなくてこの民宿にあるものはまったく違和感のない、ふたりの世界にあったものばかり。いや、むしろふたりの世界のものでもレトロに属するものが多い。
他方、新聞や週刊誌に載っている写真はほとんどが違う世界のものだった。まるでSF映画の一コマのように見えた。ただ、新聞や週刊誌そのものはふたりの世界にあったものと変わりがない。
さらに永久0012年6月10日というその日の朝刊の日付。
【永久0012年って?】
【西暦という呼び名が永久に変わったのかしら】
【そうかなあ】
【『庶民にも不老不死の時代が』っていう記事読んだ?】
真美は年号の話から話題を変える。
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【ああ】
出生率〇.〇一
結婚率〇.〇五
異性間の殺人件数が百万人を突破
ついに親殺しの件数を追い抜く
自殺率上昇
ふたりは事務室の中が真っ暗になっているのに気付かない。それはふたりの視力には光が必要ないからだ。
「コンコン」
ドアをノックする音がふたりの視線を変える。
「ケンタです。入ってもいいですか」
「どうぞ」
心配そうにケンタが入ってくる。いくら日が長くなったとはいえ、外はすっかり暗くなっている。
「大丈夫ですか」
電灯を点けたケンタは闇から浮かびあがった瞬示と真美を見て驚く。
「こんな暗いところで新聞を読んでいたんですか!」
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ふたりは何か悪いことでもしていたように、慌てて新聞を机の上に置く。
「ご心配をおかけしまして……ごめんなさい」
真美が深々と頭を下げる。
「良かった!」
ケンタが驚きの表情を喜びに変えて小躍りする。
急に外の様子を見たくなったのか、ふたりは何も言わずに立ち上がると事務室を出て玄関に向かう。
「外の空気が吸いたいわ」
真美が言い訳をしてからスニーカーをはく。瞬示もスニーカーをはきながらケンタに同意を求めるような視線を送る。しかし、同意を確認することなく玄関のドアを開ける。ケンタが慌ててサーチライトを手にしながら乱暴にスニーカーをはく。三人はそろって民宿の裏側の海へ向かう。
「ケンタは何歳?」
真美がケンタにやさしく尋ねる。
「一六歳」
「なぜ、とう婆ちゃん、かあ婆ちゃんって、呼ぶの?」
真美は手にしたジーンズの上着を着こむ。
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「父さんのお母さんがとう婆ちゃん、母さんのお母さんが……」
ケンタの返事を遮って真美はうなずくが、ケンタには暗くて真美の顔は見えない。
「ご両親は?」
「いない、母さんはオレを生んですぐに死んだ」
真美は聞かなければ良かったと後悔する。
「父さんもオレがまだ小さいときに死んだらしい」
ケンタが胸のポケットから写真の入ったケースを取り出して真美に見やすいようにとサーチライトの光を当てようとする。ライトが当たる前に真美はそれがケンタの両親であることを理解すると、その顔をしっかりと記憶する。
「とう婆さんと、かあ婆さんに育てられたんだ」
真美が急に息苦しさを感じる。それはケンタの不幸な過去を聞いたからではない。
穏やかな波の音が聞こえる。建物から数十メートル離れると小径が下り坂となり丘はなだらかに海へと向かう。海と波が星明かりでほんのりと見える。天空には星々が輝いている。手を伸ばせば届きそうなやさしい夜空だ。
ふたりはそのなだらかな坂を明かりなしで普段の足取りで下る。そのすぐ後をサーチライトで足元を照らしながら驚いた表情のままケンタが追いかける。
「ライトを!」
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ケンタが静けさを破る大きな声をあげる。ふたりは無視して苦もなく海辺で消える小径を下こみち
る。先ほどから真美の呼吸が大きく乱れだす。
【老婆が何か仕掛けてくるわ】
【えっ!】
海辺に出ると威圧するような空気の重みがふたりに迫る。ふたりはその重みを十分に感じながらまわりを慎重にうかがう。
ケンタも不吉な感じを抱いて立ち止まる。そのとき後方で老婆の大きな声がする。
「ケンタ!戻るんじゃ!」
「ついてゆくなあ!」
波打ち際で真美がうめきはじめると、たまらずしゃがみこむ。
【マミ!どうした】
【苦しい】
真美がうっすらとしたピンクに輝きだす。
ケンタには数十メートル離れた真美が異様なピンクの光の中にいるように見える。
「戻れ!」
老婆がケンタのすぐ後ろまで来て再び怒鳴る。ケンタはサーチライトを足元から老婆に向けるのではなくピンクに輝く真美の方に向ける。そして真美の位置を確認するとサーチライトを
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足元に向けて走りだす。
【マミ!】
【あの水】
真美の信号が停止する。同時に真美の輝きが増す。ケンタが強くなった輝きに驚いて立ち止まると再び背中の方から大きな声がする。
「戻れ!ケンタ」
しかし、それは老婆の声ではなかった。透きとおるような若い女の声だ。
驚いて瞬示がその声の主を捜す。暗闇の中、瞬示の視線に丘の上のふたりの若い女の後ろ姿が飛びこんでくる。着ている服はあの老婆たちが着ていたのと同じだが明らかに若々しい女の姿に見える。女は民宿の方に走りだして瞬示の視界から消える。
一方、ケンタも「戻れ」という若い女の声に驚いて振り返るが暗くて何も見えない。すぐに視線を戻してピンクの輝きに向かって歩きだす。
先ほどの「戻れ」という若い女の声がケンタを呼ぶ老婆の最後の言葉となった。ケンタにとって幼いころから慣れ親しんだ海辺のなだらかな小径なのに、暗闇のなかではよろめいたり転げたりしてピンクに輝く真美になかなか近づけない。
それまで静かだった波の音が急に大きくなる。海辺に立つ瞬示とうずくまる真美がいる波打ち際から黄色い光の塊がせりあがる。そして真美を抱きかかえた瞬示を包みこむと、ふたりは
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そのまま黄色い塊の中に消えてしまう。
その直後、民宿の方からピンクの光と青い光が稲妻のように現れては消える。しばらくすると海の中から青く輝く球体が上昇する。ケンタは黄色い塊から青い球体に目を移す。その球体から青い光線が瞬示と真美をのみこんだ黄色い塊に向かって発射される。
球形に姿を整えた黄色い物体を青い光線が通過する。丸い黄色い物体は上昇しながらピンクの光線を青い球体に向かって発射する。と同時に青い球体が爆発音を残して消滅する。
黄色い球体は何事もなかったようにさらに高度を上げた後、フッと消える。ケンタは夜空を見つめてただ立ちつくすだけだ。
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